YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ヘルシンキの旅~倹約旅行の始まり

2021-07-20 14:39:25 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
・昭和43年7月20日(土)晴れ(倹約旅行の始まり)
*参考=フィンランドの1マルカは、約113円(1ペニアは、約1.1円) 
 5時半に起きた。ここ8日間、5時間以上寝た事がないのに、如何言う訳か体には何ら影響がなかった。旅をしている緊張感からであろうか。それとも楽しい日々を送っているから仕事とは違って持ち堪えているのであろうか。とにかく自分の体は、遊び用に出来ているのだ。
 ホテルでの朝食はなく、バスは6時に出発し、駅へ向かった。6時頃のレニングラードの街は、太陽がかなり高く昇って真昼の様なのに、まだ眠っていた。広い通りには、人っ子1人おらず、静寂さを保ち、経済活動は全く停止していた。あたかも街全体が死んでいる様な感じであった。しかし、後1時間か2時間で活動しだすのだ。そして、楽しかったソ連の旅も終った。私は車窓から移り変わる街の様子を名残り惜しそうな思いで眺めていた。
 列車は、7時50分発車した。今度は個人個人の新しい西ヨーロッパが始まるのだ。私のボックスは鈴木、小田、女性の山下さん(仮称、以後敬称省略)、そして私であった。朝食、昼食は、レニングラードで買った粗末はパンで済ませた。車窓からの景色は、青々とした草原と白樺の林が何処までも続いた。
フィンランド国境駅(VAINIKKLA-ST)で出入国手続の為に暫らくの間、列車は停車した。近所に住んでいる子供達が駅に遊びに来ていた。少女達の着ている服装や顔の表情がとても明るい感じがした。小さな田舎の駅であったが、すごく印象に残った。それは、初めてヨーロッパに足を踏み入れた最初の地である他、国境を越えただけで如何してこうも雰囲気が違うのか、その相違を感じた。





△小さなVAINIKKLA駅にて

ソ連は、建物や人々の様子が何となく暗いイメージがあったので、それは無理もなかった。国家体制、イデオロギーが斯くも周りの雰囲気まで変えてしまったのか。フィンランドに入ったら車内の雰囲気も急に明るくなって来たから不思議であった。私の前の席に座っていた山下は、英語のレッスンを始め出した。それは、ソ連では英語が全く通じなかったが、「英語が通じる国へ来たぞ、自由に行動が出来るのだ」と、そんな解放感に満ちていたからであった。
 車窓の景色は急に湖が多く点在する様になって来た。国土の9%が湖であると言う『森と湖の国』のフィンランドを垣間見た。9時間程の乗車で午後3時50分頃、我々はヘルシンキ駅に到着した。これを持ってソ連経由欧州行きセット旅行は終った、ここから先は全て個人負担になる。不思議な事に35人程(実際に何人だか分らない)のこのグル-プは、9日間横浜からヘルシンキまで共に行動して来たが、紹介や一同揃った写真は、1度も撮らなかった。
列車から降りたら各自が自分の意思と行動で自由に旅をする為、それぞれ散って行った。神父の橋本さんは、知り合いのフィンランド人が迎えに来ていた。「私はこの人の家に泊まるが、君達は何処に泊まるのか」と橋本さんは彼を紹介した後、心配してくれた。「何処かホテルに泊まります。どうぞ心配しないで下さい」と私は言ってみたが、少し不安であった。
「そうですか。それでは元気で旅をして下さい」と彼は言って、我々と握手して去って行った。思えば長い道中でもあり、短い道中でもあった同行仲間は、散り散りに去って行き、寂しさが感じられた。
残ったのは1つ年上の鈴木、4歳位年上の照井、そして40歳代の鶴村さんの4人であった。私は英語を上手く話せないが、この4人の内では一番上手かった。その次は鈴木、後の2人は殆んど英語が話せなかった。しかし、2人は英語を知らないのによく出掛けて来たものだと感心した。
私、鈴木、照井は、モスクワの夜のあのホテルへ飲みに行って、その時から気が合って話をするようになった。しかし、鶴島さんが如何して我々4人の中に居るのか分らなかった。多分、鈴木と照井が知っているのであろう。
 とにかく、今日の泊まる所を探さねばならないので、駅構内にあるインフォメイションで聞いてみる事にした。当然この場合、英語が出来る私が交渉役になった。4人一緒に泊まれて、安いのが条件であった。ユース・ホステルを聞いてみたが、既に一杯であるとの事であった。安いペンションがあるか聞いたら、あるとの事でそこに決めた。4人で30マルカ(約3,390円)勿論、食事なしの料金であった。女性スタッフにその場所を教えて貰い、市内地図を戴いて外に出た。遠いのでタクシーで行く事にしたが、4マルカで少し高い感じがした。
セット旅行は終ったので、この様に何でも自分でしなければならないし、そして自分の持ちドルが減少して行くのであった。タクシーを使うなんて贅沢と言うか、それに出来れば多くの国を旅しなければならないので、私は無駄な金は使いたくなかった。
 着いたペンションは、それなりの部屋であった。物価の高い北欧でこの値段では仕方ない、我慢のしどころであった。我々は一息ついてから市内へ散策に出掛けた。