YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

パリの旅~国際急行列車の旅

2021-07-30 08:36:46 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ノートルダム寺院(PFN)

・昭和43年7月30日(火)晴れ(国際急行列車の旅)
*参考=フランスの1フランは、約70円(1センチムは70銭)。 

 夜の闇の中を列車は、一路パリへとひた走った。コペンハーゲン~パリ間は、デンマーク、ドイツ、オランダ、ベルギー、そしてフランスの5ヶ国が存在して、列車(我々)が入出国の度に夜中にも拘らず、各国の係官が旅券の提示を求めに来た。その上更に、1つの国で2回程、乗車券の検札に来たので、睡眠が取れる状態ではなかった。夜行列車なので、もう少し考えて貰いたかった。
フランス領内は田園の中をひた走り、パリに着いたのは午後3時20分であった。乗車時間は18時間から19時間、睡眠不足が加わり疲れた旅であった。
 
 所で、麦畑の中から急に都市になり、パリは田園の中にドカーンとあった。東京や他の大都市は、たんぼや畑から段々家が多くなり、そして工場も多くなり、それから大都市に入って行く。ヨーロッパの大都市、またパリの様にロンドンも、田園から急に大都市の様相を呈した。
 
 私は日本を出国前、会社の先輩からパリ在中の朝倉正雄さん(仮称)を紹介してもらった。その彼に手紙を出したら、「是非こちらに来られたら、自由に私の部屋を使って下さい」と言う有り難い返事があった。彼の住まいは、パリの中心から近い、あるアパートメント・ハウスの一室を借りて住んでいた。パリに住んでいる彼の友達は「マサオ」と言っているので、私も以後、「マサオ」と呼んでいた。
その様な訳でパリに到着後、私と鈴木はメトロ(パリの地下鉄)に乗ってマサオの所へ行って見た。彼の住んでいる建物は、古く(こちらではそれほど古い方ではない)、200年(もっと古いかも)は経っているように見受けた。4階の部屋への階段は、各階ごとに明かり点けて(点けても薄暗かった)、そして次の階に行ったら前の階の明かりを消す、そんな階段用照明を操作しながら上って行った。 
4階の彼の部屋に着き、ノックしたが応答なし、鍵も掛かってドアは開かなかった。すると、隣の部屋の青年(ベネズエラ人)が、「マサオはロンドンへ出掛けていて、3日か4日間、戻って来ないらしい」と教えてくれた。

 我々はユースへ行くには既に疲れていて、この辺りのホテルを探し、泊まる事にした。と言っても勿論、1星の一番安いホテルで部屋代は、1人8フラン(約560円)であった。当然、食事代は含まれていなかった。
 
 ホテルから出て直ぐ表通りに、サラダやパン(フランスパンは長くて、固い)等を売っているスタンド形式のお店があった。我々は夕食と朝食用にそれらを買って、サンドイッチにして食べた。このお店で買物した時の若い女の子は、まったく英語が分らず、身振り手振りでの買物であった。後から気が付いたのであるが、全般的にフランスは英語が通じない国であった。
ヨーロッパ旅行中、私のパリ滞在はトータル的にロンドンに次いで2番目に長く滞在していた。フランス人について感じた事は、フランス人は大国意識を持っていて、たとえ英語を知っていても知らない振り(『フランスに来たらフランス語を使え』と言う感じだった)をする場合があった。そして、概ねフランス人は、他のヨーロッパ人から比べると、本当に英語を知らないようであった。その様な理由でこの国は、英語が余り通じなかった。
 
 所で、我々が泊まった部屋のトイレには、トイレ容器の他に見た事もない容器があった。ホテルの人に聞いたら、あそこを洗う仕草を手真似で教えてくれた。なるほど、婦人のあそこを洗う為の容器(婦人専用の衛生洗浄器『ビデ』と称する物)であった。
イギリスやオーストラリアでは、見掛けなかったが、フランスでは必ずあってフランス文化の一端を垣間見た。
 
 昨夜は、睡眠が取れない長時間の夜行列車の旅、そして今夜はフカフカなダブルベッドに男2人が寝る事になった。寝られそうもないが、ともかくお休みなさい。