YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

鉄道と空の旅~広大な原野を列車と空の旅

2021-07-16 08:30:53 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年7月16日(火)晴れ(広大な原野を列車と空の旅)
 朝起きると、列車はシベリアの原野を走っていた。私にとって生まれて初めて見るソ連の雄大な景色と大地。行けども行けども家は見当たらなかった。延々と続く白樺の森、それを過ぎると草原が広がる地平線であった。果てしなく続く大地、その光景は尽きる事がなかった。
 食堂車で朝食を取った後、乗船仲間達と通路に出て、又この景色を眺めていた。すると昨夜の女性乗客係2人がやって来た。誰かが彼女達にロシア民謡を歌ってくれるようお願いしたら、彼女達は嫌がる素振りもせず、カチューシャ、トロイカ、トモシビ等を歌ってくれた。大変上手で、しかもその歌と景色がマッチして、皆の心の奥深くジーンと来るものがあった。我々も彼女達と一緒に日本語でそれらのロシア民謡を歌って列車の旅を楽しんだ。この時、私を含めて皆も彼女達が好きになり、いつまでも共に居たい気分になってしまった。しかし、ナホトカ生まれのシベリアの大地が良く似合う、愛くるしい彼女達とも別れなければならなかった。
 10時50分、列車はハバロフスク駅に到着した。ヤードも長く大きい停車場で、鉄道の主要駅である事は直ぐ分った。着いたホームにて、飛行機でモスクワへ行く我々一行と、他の列車に乗り継いで行く4人か5人の小グループとに別れた。
 モスクワまでの運賃は、飛行機と列車は同じぐらいと聞いているが、一長一短があった。列車ではハバロフスクからモスクワまで一週間、或いはそれ以上かかるが、広大なシベリアの景色が楽しめる。しかし、船ならともかく列車に一週間以上乗っていられるか。人間が時を過ごすには、余りにも空間が狭すぎるから精神的、肉体的に不健康、そして雄大な景色も毎日だと単調過ぎて飽きる、と思った。飛行機は9時間でモスクワへ行けるが、シベリアの景色は楽しめない。どちらにするか、それはその人の旅の仕方だ。私を含めて多くの旅行者は、飛行機で行く『セット』となっていた。考えてみると、『一度で良いからあの雄大なシベリアの原生林や平原を縫って行く列車の旅も良いなぁ』、とも思った。でも既にナホトカ~ハバロフスク間でその様な体験をしたので、それで我慢しなければ・・・
 我々は昼食を取る為、バスでレストランへ行った。「行った」と言うより全てソ連のインツーリストによって、「連れて行かれた」と言うべきで、受動的なのであった。
ソ連のセット旅行について忘れない為、もう少し詳しく書いておく事にした。
セット旅行の行程は、横浜~(船二泊)~ナホトカ~(列車)~ハバロフスク~(飛行機)~モスクワ(二泊滞在)~(列車)~レニングラード(一泊滞在)~(列車)~ヘルシンキ(グループ解散)。この様な旅程でフィンランドの首都ヘルシンキまでインツーリスト(ソ連公営旅行社)によって仕切られ、セット代金は前に書いた通り、既に海外ドル持ち出し分500ドルの内から70ドルを払い込み済みであった。
 ソ連は、ついこの前まで〝鉄のカーテン〟(ソ連を含む東欧の社会主義諸国が欧米の自由主義国に対して取った閉鎖的な政策。従って、旅行も受け入れていなかった。)で閉ざされていた。いずれにしてもどの様な旅行形態であれ、旅行が出来るようになったのは、良い時代になったと思った。しかし、これから何時発の飛行機に乗って、モスクワではどんなホテルに泊まるのか、モスクワ見物はどんな所へ案内してくれるのか、我々には一切前もって知らされていなかった。常に直前になってから知らされるのであった。ただ出発前に知らされたのは、『モスクワ市内見物には、現地JTBの職員が同行してくれる』と言う事だけであった。普通の団体旅行であったなら、パンフレットや事前に必要な時間や行程を知らしてくれるのが当たり前であるのだが、共産主義国家・ソ連と言う事で、何か納得している面があった。その様な事で、全てインツーリスト任せにしてしまうのも、自分であれこれ思い巡らす、又は気を使う必要もないから、ある意味で随分と楽であった。ヨーロッパへ安く行ける手段だけでなく、旅に慣れるまで最初、この様にセットされている方が皆にとってもベターであった。
  そうだ、ソ連で一番注意しなければならない点、それはカメラの扱いであった。出発前日の丸の内ホテルでのミーテングで申し合せとして、JTBの方が「飛行場、軍事的建物、飛行機からの上空写真は、決して撮ってはいけません。又、観光地や表通り以外の不信と思われる場所での写真撮影は遠慮すべきであって、万が一スパイ行為、或いは、トラブルになっても当公社は一切責任を持てません」と何度も言われていた。これは、『ソ連と言うお国柄』であると十分理解すべき重要な事項であった。
話を戻すが、バスの中から垣間見たハバロフスクの印象は、建物(公共・住宅問わず)や広い道路はよく整備されて、道路脇のポプラ並木と本当に良く調和されていて、落ち着いた感じがした。又、日本では何処でも見掛ける商業的看板類がなく、街の規模の割に大通りも閑散としていた。我々の感覚としてシベリア第一の都市にしては、余りにも殺風景な感じであった。
我々はレストランで昼食を取った後に飛行場へ行った。3時間近くたってやっと〝プロペラ機TU114型機〟(私がどうして飛行機の型を知ったか分らない)に搭乗する事が出来た。

        
    △ソ連製プロペラ機TU114型機(ネット写真=PFN)

 生まれて初めて搭乗することになった飛行機。楽しさ、そしてちょっぴり恐怖感もあった。飛行機事故は、離陸する時と着陸する時に事故率が一番高いと聞いていたので、私はその時が一番不安を感じた。又、怖かったのは飛行機がエアーポケットに入った時、墜落しているかの様に200メートルから500メートルぐらい降下した。その状態は、飛行機が水平飛行をしていたのに突然、機体がガックとなって足元がスーゥとなって、後は無重力の状態で降下して行く感じであった。最初、墜落しているのだと思い、背筋が寒くなる感じがした。グループの女性達は、「キャー、キャー」騒がしかった。何回も降下回数を重ねると、又時間が経つにつれてエアーポケットの状態に慣れて来たのか、我々は平然となった。
 飛行機から眼下の眺めは最高で、まさしく天国から眺めているかの様であった。遥か下の方に広がるシベリアの原生林、尽きる事のない平原。そしてエニセイ川やオビ川は、大河なので機上からでも直ぐ分った。これがソ連なのか、ただ感嘆するばかりであった。私は窓際だったので、眼下の景色ばかり眺めていた。
 飛行機は太陽に向かって西へ西へと飛んでいるので、時間が過ぎても一向に暗くならなかった。モスクワ上空に着いた時、私の時計は午後の10時頃であった。着陸前、「時計を午後の3時に合わせて下さい」とアナウンスがあった。飛行時間9時間30分、時差が7時間あるので時計の上では、2時間半でモスクワに着いた事になった。
 今日、私は食事を6回も取った。1回目は列車乗車中に朝食を、2回目はハバロスクのレストランにて昼食を、3回目は飛行場が飛び立って間もなく機中にて昼食(3時間前に食べたのに、如何して又食事なのか、不思議に思った)を、4回目は機中にて夕食を、5回目は機中にて又夕食を、6回目はモスクワ市内のレストランにて又又夕食を取った。私の人生に於いて、食事を1日6回取った事は過ってなかったので、お腹の方もビックリしたであろう。
 何はともあれ、飛行機は下降上昇を繰り返しながら、モスクワのドモジェードボ空港に無事、着陸した。空港は、市の中心から50キロ程離れているとの事で、空港から専用バスで市内へ。車窓からの景色はいかにもソ連らしく白樺の林が続き、そして間もなく労働者の団地群を眺めながら40分で市内へ入った。  
 広々とした道路を行き交う車や人の群れ、そしてトロリーバスや市電の運転手は皆、恰幅の良い中年のロシア女性であった。「やっと、そして終にモスクワに来たのかぁ」と言う感じと、「3泊4日でもう着いてしまったのか。随分モスクワは近いのだなぁ」と言う、2つの感じが入り混じって複雑な心境であった。
 着いたホテルは、ウクライナホテルと言って、25階建ての高層ビルデングで立派であった。私の部屋は8階、阿部さんという人と同室であった。室内は豪華であり、調度品も年代物と思われる代物であった。こんなに素晴らしい部屋は初めてであり、今後の旅行中でも2度と泊まれないであろうと思った(実際、ソ連以外は帰国までこの様なホテルに泊まれなかった)。ともあれ浴室で旅の垢を落とした。
  夜(実際は昼間の様に明るかった)、ホテルの周辺を散策した。床に着いて寝ようと思ったが、直ぐに寝られなかった。午後11時になっても暗くならず、翌朝1時頃、カーテンの隙間から日が差し込み、明るくなってしまった。モスクワの夏の1日は本当に長かった。寝不足気味になるのも当然であった。