YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

旅への誘い

2021-07-08 19:55:25 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
旅への誘い

 昭和40年3月に海外旅行の件で親父と相談する為、実家へ帰った。親父は、明治生まれの頑固な職人でした。酒が好きで毎晩晩酌をしていたので実家へ行く時は、いつも一升ビンをぶら下げて帰り、親父と飲んでいました。
この日も飲みながら、「父さん。俺、ヨーロッパの方へ行って見たいのだが」と話を切り出した。
「行って、帰って来る金があるのか」と親父。
「船で行くだけの金はあるよ」と私。実はこの2年ほどで20万円位貯めていました。この額は、片道の船賃程度であった。
「向こうでどの様にして旅行して、又、帰りは如何するのだ」と親父。
「無銭旅行か働きながら旅行するヨ」と私。
大きな声で、「駄目だ、許さん」親父の一喝が飛び出した。「行って帰って来るまでの必要な金を持っていなければ、承知しないぞ」と親父の凄い剣幕に、私は圧倒され気味であった。
「それなら、それだけの金を貯めたら許してくれるのか」と私。
「それなら行ってもよろしい」と親父が最終的に言ったので、この話は5・6分で終わった。
お袋は傍でじっと聞いていたが、自分の考えは出しませんでした。お袋は夫の前で自分の考え・意見は出さないし、出すものではない、と言う時代の女でした。だから、大事な話はお袋を通さず、親父と相談する事が解決の早道であったのでした。
所で、もしこの時点で親父が承知していたら、2度失敗した事を再び繰り返していたであろう。旅行資金不足、勇気・行動力不足で、きっと大使館辺りに泣きつくか、或いは、野垂れ死にしていたであろう。『そんな惨めな事を息子にさせたくない』と言う親父の想像力、洞察力に感服したのでした。
しかし、2年間、自分が想い続けていた事を親父に表明した事は、意義深いものがあったし、私の頭に何かもやもやしたものが取れた様な気がした。そして、『最低でも行って帰ってくるだけの旅費と滞在費を貯めなければ』と言う確かな目標が出来た。お金を貯める方法は、無駄使いをしない事であった。
所で、如何してアメリカやヨーロッパに憧れていたのであろうか。これは多分、日本が先の戦争に負け、それらの国々から文化が入って来た。特に、映画やテレビの影響が強く、日本人の心は益々、欧米に傾注した感じであった。そして、加えて小田実氏やミッキー安川氏の本が決定的に私の海外への心を開いたのだ。又、島国的、閉鎖的な考え・社会から外へ出て見たいと言う願望の表れでもあった。

蒸気機関車の思い出の話

2021-07-08 14:51:18 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
蒸気機関車の思い出の話
 
 汽車と言えば、蒸気機関車の思い出があります。私は幼い時から『シュシュ』と黒煙と白い蒸気を吐きながら、背よりも高い“丸い鉄の塊”(動輪と言う言葉を知らなかった)が回るその力強さ、『ボォー』と腹の底まで響く汽笛、そして何とも形容し難い煙の匂いが好きだった。又ある反面、蒸気機関車が近くを通り過ぎる時、引き込まれる様なある種の怖さを感じ、その機関車に対する凄さを感じた。
 私は幼稚園や小学校低学年頃は、よく蒸気機関車の絵を描いていた。又、両隣の幼友達のミコチャンとマコチャン(私より1つ年上)と3人で『停車場』(駅の事を『ていしゃば』と言っていた。)へ蒸気機関車を見に、よく行っていた。そんな冬のある日、深谷町(当時は埼玉県大里郡深谷町)は良く晴れて雪が無いのに、列車の屋根にたくさんの雪が積もっている、その光景が不思議でならなかった。
  小学校高学年や中学生の時、熊谷市へ行った帰りの際、蒸気機関士に、「おじさん、運転席に乗せてー」と頼むと、当時は乗せてくれた。「オイ坊主、石炭くべろ」と言われ、罐(かま)の蓋を空けると顔が火照り、罐に機関助手とくべた事もあった。又、助手席に乗せて貰い本当に自分が機関士になった気分で嬉しく、良い体験をさせてもらった。電化された高校生の時、熊谷駅から電気機関車の運転席にも乗せてもらった事もあった。今では規則上、又、周りの目もあるし絶対に運転席には乗せてくれません。