YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

小さな旅~その2、 沼田への旅の話

2021-07-07 08:58:03 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
小さな旅~その2、沼田への旅の話 
昭和38年8月上旬のある日、『今度はサイクリング自転車で、日本一周しよう』と思い付き、深谷を11時頃に出発した。このサイクリング車は、2番目の義兄の物でした。私が高校3年の時、市ヶ谷の海上自衛隊基地に勤務していた兄が、「不用なので使って良いから、取りに来なさい」と言ってくれました。往きは列車で、そして帰りはこの自転車で国道17号(中仙道)をひた走り6時間要してF市まで戻って来た。この時が私にとっての初めての小さな旅でした。田舎の高校生の私が東京の道路を知る訳もなく、ただ大宮・高崎方面の道路標識を頼りに、夢中でペダルを踏みました。大宮を過ぎた辺りから尻が痛くなって来て仕方なかったが、無事に戻れて本当に良かったことを覚えています。
 話は戻しますが、深谷市を発って本庄まではアスハルトの道でしたが、本庄を過ぎた辺りから砂利道になり、真夏の日差しは暑いし、きつい出足になってしまった。深谷から熊谷まで自転車で遊びに行った中学2年の時、この間の17号国道は既に整備されていました。昨年、東京からF市まではサイクリングした時も、道路は整備されていたので、主な日本の国道はアスハルトで整備されているとばかり思っていた。
 しかし、高崎~前橋間は整備されていたが、前橋を過ぎてから泥道に変わり、渋川を過ぎてから凹凸が酷くなり、ぐしゃぐしゃな、或は、ひどい水溜りの悪路に変わった。おまけに山道になり、日も暮れ出して来た。そしてすっかり暗くなり、電灯の灯も無く真っ暗、こんな山の中に泊まれる場所もある訳は無く、尻は痛くなるしペダルを踏むのも疲れ来た。辺りは闇夜、行き交う人も車も無く、頼れるのは自転車のライトだけで、よく注意していないと崖から落ちる羽目になりかねない道路状況であった。
私は寂しさ、心細さ、不安が突然に湧いて来て、如何してこんなに苦労しなければならないのか、自分自身が分らなく成って来た。『サイクリングで日本一周してやるぞ』と言う意気込みは、早くも挫折感が湧き始めて来た。遥か下界に沼田の街灯が見えてきた時は、「助かった」と言う安堵感で一杯だった。
 沼田に着いた時は既に21時を回っていた為、街はシーンと静まり帰り、人っ子1人見当たらなかった。『何処か泊まる所を探さねば』と思うのだが、ホテルや旅館に泊まっていたら1週間程度で所持金が無くなってしまうので、その様な所には泊まれなかった。それに無断で休んで来てしまって会社はどうするのか。両親の了解を得ないで、しかも何処へ行くとも言わないで飛び出して来て、心配しているのではないか。それらの事を考えていたら、これ以上の自転車旅行を、本当に続けて行ける自信が失ってしまった。
  暑かったけれど、苦しかったけれど昼間の楽しい旅も夜になると一転して旅を継続して行けない要素が働き、又も断念せざるを得なかった。沼田駅でサイクリング車は手荷物扱いにして、上野行き夜行列車に乗る自分に対し不甲斐なさをひしひしと感じ、自分自身が悲しくなってしまった。『ボー』夜汽車の汽笛が心の奥底まで響き渡り、何とも形容しがたい感情になり、溢れる涙を抑え切れなかった。
就職してまだ半年もしない期間に私の2つの旅を反省してみると、次の様に纏まった。
①   就職したばかりで所持金が全くと言っていいほどなかった。例え無銭旅行をするにも、それなりにある
程度の金は必要であった。                                           
② 会社の許可を得ず、無断で休んでしまった。職場ではさぞ心配し、迷惑であったであろう。社会人になったのだ、もう少しまともな(常識的な)行動が必要であった。就職したばかりでやっている事は、まだ子供であった。
③ 両親の承諾を得ず旅行をしようとした。親の同意を得ずして何も出来ないと思った。
④ 旅の仕方、テクニックが無く、その行動の裏づけが全くなかった。2度とも無計画で衝動的に行動してしまったので、深く反省した。
⑤ 若かった所為か、勇気と忍耐が無かった。
 以上の点で、この2つの旅は、2日も続かないのは当たり前で、高校卒業したての私は、『旅をする』と言う事を断念せざるを得なかった。それを肌で感じ取った旅でした。