YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

モスクワで見た事・感じた事~モスクワの乗合いバスの話

2021-07-18 13:01:25 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
*モスクワの乗合いバスの話                                      
バスの運転手は、これ又例外ではなく、太った中年女性が殆ど占めていた。しかも運転手一人で車掌が居ないバス、それが珍しかった。
東京含む関東ではまだ、運転手一人(ワンマン運転)による運行はなく、必ずバスガール(車掌)が乗車して、切符の発売・回収や停留場の案内をしていた。
 乗客は車中の所定位置にある発券機にコインを入れて小さい切符(国鉄の乗車券位の大きさ)を買って自ら改札(入鋏)していた。前もって買ってある大き目の切符は乗車してから自ら鋏を入れていた。不正乗車する人は、モスクワにはいないのだ、と私はそう見た。皆、乗車マナーが良く、混んで切符を買えない時など、発券機の傍に居る人に頼んで切符を買って貰ったりしていた。私は、社会主義社会の一つの縮図を見た様な思いがした。
 地下鉄もそんな感じであった。乗る人は、乗客ではなく、利用者である、と判断すべきなのだ。利用者であるので客面をしたり、横柄な態度をしたりはしないのだ。公共物は皆の物なのだ。従って、それらは自分達で、しかも出来る範囲内で協力し合い、権利と義務を行使しているのであった。だから、不正乗車、無賃乗車をする人は『非国民』と見なされるのではないか。従ってバス運転手は一切、乗車券・営業に関わる業務はしない、安全運転に集中していればそれで良い、と私はその様に見た。
  置き去りにされたおかげで、20数分間のバス乗車であったが、資本主義国である日本とでは全く正反対な一面を垣間見た思いであった。

モスクワで見た事・感じた事~モスクワの女性達の話

2021-07-18 12:32:10 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
*モスクワの女性達の話
 モスクワ性は、均整の取れた美しい子が多かった。その反面、中年になったおばさんは、殆ど恰幅がよかった。多分、脂っこい物を多く食するからであろう。それとも民族性なのであろうか。                             
 ソ連の女性は、結婚しても共稼ぎが原則になっているのか、あらゆる方面に進出していた。タクシー、大型バス、トロリーバスの運転手は勿論の事、地下鉄の電車運転士も彼女達が占めているのに驚いた。貫禄ある女性の運転士を見ると頼もしさを感じた。しかし、その反面よく観察すると、男性は兵役に回されているのか、その労働力不足を女性達が補っていると思われる程、街に軍服を着た軍人達を多く見掛けた。
  気付いた点ですが、何処へ行っても婦人達(若い女性やおばさん)は、皆スカート(欧米で流行っているミニスカートは見受けなかった)を履いていて、ズボン(スラックス)を履いている姿がまったく見受けられなかった。『如何して』と、私は疑問に思った。それともスラックスを履いてはいけないのだろうか。そして若い女性は若さがない、と言うか覇気が無いし、ファッション(おしゃれ)に対する感性が欠けている様に見受けられた。
何はともあれ彼女達に幸あれ、と願うだけであった。

モスクワで見た事・感じた事~モスクワの地下鉄の話

2021-07-18 12:15:12 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
*モスクワの地下鉄の話
 モスクワの地下鉄(Metroメトロ)は、全線均一の5コペイカ(20円)でした。利用者(社会主義国だから「乗客」とは言わない~私の私見))は改札を入る時に5コペイカの硬貨を投入口に入れるだけで入場が出来た。入れないでそのまま改札口を通ろうとすると、鉄の棒が横から出て来て、改札通路を遮断する仕組みになっていた。大きな駅の何通路もある改札口でも改札係員は一人で、ただ利用者が通過するその状況を見ているだけでよかった。改札の合理化はモスクワが最初であろう。叉、全線均一であるからこそ出来るこのシステムに、私は率直に感銘した。*日本の大きい駅・ターミナル駅では鋏(改鋏=かいきょう)を持った何十人もの改札係員や集札係員が配置されている。
 改札を入ってホームへ行くのに地下深く(100メートルから200メートル位)エスカレーターで降りて行った。こんなに深くホームがあるは戦争の時、市民を守るシェルターの役目をしているとか。ホームは大理石で出来ていて、約50メートル間隔で大きな大理石の彫刻像があった。又、ホーム照明は天井から豪華なシャンデリアが幾つも下っていた。それはまさしく宮殿の中に居る感じであった。ホームに塵一つ、吸殻一つ落ちてないのには、本当に感心した。私は滞在中、5・6回ほど利用したが、何処の駅でも綺麗であった。駅の綺麗さとゴーリキ通りにあるレストランのトイレの汚さは反比例していたが、同じ国営なのに如何してなのであろうか、私は不思議でならなかった。
 又、何処の駅でも案内用電光表示路線図があり、目的地のボタンを押せば利用路線と乗換駅が一目で分るようになっていた。電車内の感じは日本と変わらず、スピードは早く、走行音はうるさくなかった。最前部の運転席には皆、恰幅の良い中年女性が2人乗務していた。その代わり、最後部の乗務員室には車掌が乗務していなかった。
  モスクワの地下鉄は、本当に素晴らしく想像以上であった。私は言いたい、『モスクワの地下鉄を乗らずして、地下鉄を語る事なかれ』と。

モスクワの旅~置いてけぼりになる

2021-07-18 07:57:26 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年7月18日(木)晴れ(置いてけぼりになる)
  
           △赤の広場にて

 今日も観光バス(愛称カモメ号)で市内観光をした。案内役は昨日の女性であった。市内観光が終り、午後0時30分頃に赤の広場の指定集合場所に戻ると私と橋本さんを残し、バスは既に行ってしまった。2人で如何しようか話をしていたら、暫らくしてJTB現地付添人の清水さんが戻って来た。そして3人は市内循環バスでホテルに戻った。お陰様で私はモスクワのバスに乗車する事が出来て、良い体験をした。ホテルに戻った後、私と橋本さんは遅い昼食を取った。グループの仲間は、日本とソ連の社会の仕組みについて話し合っていた。
  「ソ連は車に優先権があるので、車に轢かれないように十分注意して下さい」と出発前の説明会で注意を受けていた。従ってこの国では、歩行者が車に注意を払うので返って事故率が低いらしい。車優先とは、如何にも社会主義国ソ連らしいが、歩行者優先とどちらが良いのであろうか。それにしてもモスクワの道路の整備状況は、日本と段違いであった。歩行者専用路(歩道)は自動車専用道路とはっきり分けられ、しかも広すぎるほど十分取ってあった。広い国の社会主義国だからこそ出来る事なのだ。そして自動車台数も東京と比べてモスクワは少ないので、日本と逆な制度も可能なのであろう。


 △アルハンゲリスキー大聖堂にて~日本人が珍しいのか「ヤポンスキー、ヤポンスキー」と言って私に群がるウクライナから来たピオネール(ソ連共産主義同盟少年少女の組織)の子供達。
 
 今夜、モスクワからレニングラードへ行くので、午後は日記を書いたり、友達、家族、そしてシーラに手紙を書いたりして過した。その後、ウクライナホテルで最後のデナーを楽しんだ。食事はいつもフルコースであった。スープ(ボルシチ)で始まり、果物、ティーで終った。船上で初めてロシア料理を口にした時、口に合わなかったが、今では美味しくいつも楽しみであった。同行仲間の話しによると、街のレストランは注文してから料理が出るまで2時間近くかかったそうだ。そしてウェイトレスの接客も悪かった、と悪評であった。それに反してここのホテルのレストランは、料理を始め、ウェイトレスの態度、機敏な仕草等には感心するほどで、全く不満は無かった。多分、『外国のお客様に不快な思いをさせないように、ソ連の良い印象を持って貰おう』と言う政府、或いはインツーリストの計らいなのであろう。お陰で私は楽しいモスクワ観光やホテル滞在が出来てインツーリストに有難う、と言いたかった。                                                           
 午後10時55分、モスクワのレニングラード駅からレニングラードのモスクワ駅に向けて列車は出発した。楽しいモスクワの思い出を乗せて・・・。不思議な事に、ソ連では出発地の駅名が到着地の地名になっていて、到着地の駅名が出発地の地名になっていた。初めての旅行者はまごつくであろう、と思った。