YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

会社へ提出した休暇願は不許可

2021-07-11 09:37:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第1章 プロローグ
会社へ休暇願を提出したが不許可

 昭和43年5月下旬のある日、休暇願を会社に提出した。内容は、『私は長い間、海外旅行をしたいと願っておりました。ここに現実の運びと成り、付きましては6ヶ月間の休暇を取りたいと思いますので許可をお願い致します。旅行予定計画は、出発前の準備その他1ヶ月間、ヨーロッパ旅行2ヶ月間、イギリス滞在1ヶ月間、帰国の為の乗船日数2ヶ月間、合計6ヶ月間です。』と言うものでした。                     勤務終了後にこの願い書を、「お願いします」と言って最初に職場(私の職場は保谷乗務区)の上司Aに渡した。彼は何を渡されたのか、不思議そうに封を開いて読み始めた。そして、「本当か、冗談だろう」と笑いながら言って、信じようとしなかった。
「本当です。宜しくお願いします」と私は真面目な、本当の気持で言った。
「そうか、分った。今日は既に区長は帰ったから明日、渡しておくから」今度は彼も信用したようで、真面目に答えてくれた。
 「お願いします」と頭を下げ退席した。
 私は終に決定的な物を渡してしまった。そしてその後、区内の2階寝室のベッドに潜り込んだのだが、私の心臓はドキドキして、その夜は興奮してよく眠れなかった。『本当に、そして終に、会社に自分の意思を表明したのだ。もう引き返せないのだ。行くしかないのだ』と何度も何度も自分に言い聞かせた。実際、会社が私の旅行を許可してくれるか、如何か分からなかった。『可能性は10パーセントもない』と思っていた。もし許可してくれなければ、退職せざるを得ない覚悟も100パーセント持っていた。両親の承諾も得たし、お金を払い込みして全ての手続も済み、旅券も取得したのだ。『会社が許可しなかった』と言って、取り止める訳に行かなくなった。
 翌日、仕事が終り区長の所に行った。「本社に行って今、帰って来たところだが、本社の意向として、『許可』は難しいかもしれないぞ。とにかく一両日待ってくれ」と区長。
「分りました。よろしくお願いします」これだけ言って、私はその場を離れた。
 6月1日か2日だと記臆しているが、区長に再び呼ばれた。
「この間の件だが、会社は1ヶ月間なら許可するとの事だ。会社では今までこんな例はないし、会社も他の同種企業に当たったそうだが、この様な例は無いそうだ。だから1ヶ月間が精一杯との事だ」と区長。
「そうですか、分りました。しかし会社の条件の1ヶ月間と私の計画上の6ヶ月間では随分差があります。私は今更計画を変更出来ないし、退職せざるを得ないと言うことですか。それとも旅行を諦めろと言う事ですか」と私。
「会社の条件である1ヶ月間で出来なければ、そう言うことになるな」と区長。
「分りました。どちらかに決めさせていただきますので、一日考えさせて下さい」と私。ここで、『それでは退職させて頂きます』では余りにも素っ気ないので、形式的にも1日、意思を保留させてもらった。
 それにしても半年ぐらい休職、又は、欠勤扱いと言う処置を会社は出来なかったのであろうか。会社は、社員の長年の夢を実現させてやる余裕もないのであろうか。社員の都合でいちいち許可していたら会社の統制が出来なくなる恐れがある、と言う事も理解出来ない訳でもないが。就業規則第32条第8項の休暇扱い規定の一項に『本人の申し出を会社が適当と認めた時』と規定されていった。これをどう解釈するか、結果的に私の休暇願は会社にとって適当と認め難いものであったのだ。
 後日の事であるが、ヨーロッパへ行って何人かの同年齢の日本人の旅人に会ったが、中には、「会社から1年、或いは、2年休暇を貰って来たよ」と言う羨ましい話があった。「私は会社が半年の休暇を認めてくれず、辞めて来た」と言うと、「君、それは随分遅れた会社だなぁ」なんて言われた事があった。
  何はともあれ、自分としては旅に出たかった。休職扱いをして貰えなくても退職して行く意思は、固まっていたのでその夜、6月15日をもって辞職する旨の退職願いを書いた。                    そして翌日、上司にその退職願を渡した。                                                             「やはり辞めるのか」と区長      「はい」                                          「5年以上勤めて、ここで辞めるのは勿体ないのではないか」と長。                     
「仕方ありません。それを考えると何も出来ませんし」と私。                           「運輸部長からの伝言だが、『今回の会社の処置は仕方ないが、帰国したら便宜を計るから、いつでも会社に戻って来るように』との事だ」と区長。                                         「有難うございます。その節はお願いします」と折角の会社の恩情ある提案を私はそのように答えた。  私は『早く自由になりたい』と言う事で頭が一杯であったし、そして『やっと終った。やっと決着がついた』と言う一種の安堵感さえあった。                                                                                        それから6月15日まで〝自分の仕事〟(西武池袋線の電車運転士)を最後まで全うし、昭和43年6月16日付けで退職した。