YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

サルプスボルの旅~リュックの話

2021-07-26 10:35:27 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
*リュックの話
都会や田舎を歩き回る旅になる事は、出発前から考えられていた。しかし、山登りやハイキングをするのではないから、『リュックを背負って海外旅行する』と言う発想は、日本出発前、なかった。
事実、ソ連経由グループ35~40人程の内、リュックの人は1人であった。勿論、その人は若者であった。彼の服装は普段着(ジーパンにラフなシャツ)で、周りの日本人からは異質な存在であった。彼はそんな格好をしていたので、『日本人の面汚し』と言った様な目で見られていたのは、事実であった。本当は、彼の様なラフな服装が一番旅がし易いスタイルであったのだ。
地域、農協、或は職場旅行に於いて年配の方は勿論、若い人も背広で旅行し、ラフなスタイルはいなかった。当然、背広スタイルであるからリュックを背負っての旅行は、考えられなかった。ましてや外国旅行では、なおさらであった。
しかし、こちらに来たらアメリカやヨーロッパの若者は、皆それぞれラフなスタイルでリュックを背負って旅をしていた。彼等こそケチケチ旅行をするスタイルの正統派であり、旅慣れた人達だったのです。
 私も又、ロンドン滞在後の旅発ちする時は、リュックにジーパンとジャンバーで、如何にも旅慣れしたスタイルになったのです。

サルプスボルの旅~旅人の荻さんに出逢う

2021-07-26 09:30:28 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△自然と調和した家並み(PFN)

・昭和44年7月26日(金)晴れ(旅人の荻さんに出逢う)
 オスロを北上してフィヨルドを見たいが、物価の高い北欧から早く脱出したいので、我々は南下する事にした。
東駅に着いて時刻表を見ていたら、1人の日本女性に出逢った。彼女は、「イギリスで英文速記を学ぶ為、こちらに来た」と言った。私は高校1年の時に半年ばかり、早稲田式速記クラブに入部していた事があるので分るが、日本語でも大変なのに英文速記を習うとは、大した目的を持っている女性がいるものだ、と感心した。成功を祈るのみだ。外国で勉強し、その目的を達成するのは、容易でない、と思った。そして、努力しても多くの者が色々な諸事情で途中断念するのであろう事は、想像に難くなかった。
 最初、我々はBergen(ベルゲン)へ行く予定であったが、13時40分発Sarpsborg(サルプスボル)行きの列車がたまたまホームに停車していたので、ふらっとそれに乗り込んだ。オスロから75km程南下した知らない町であった。  
 列車に乗る前、駅でEurail Pass(ユーレイル・パス)を使用開始する日付を押印してもらった。今日から私のパスの有効期間は、1ヶ月間となった。
西ヨーロッパの列車旅行で最も割引率が高く、有効的な乗車券がこのユーレイル・パスであった。これは、イギリスを除いた13カ国が利用出来、全て1等車(ファーストクラス)に乗れ勿論、2等車(エコノミークラス)にも乗れた。このパスは21日間、1ヶ月間、2ヶ月間、3ヶ月間有効の4種類があった。これを持っていれば、いつでも、何処でも乗れ、又予約も出来た。
 私と鈴木は、ファースト・クラスで優雅な列車の旅を始めた。列車は海が見える岸壁上に沿って走っていて、まさにフィヨルドの景色であった。何も北部地域へ行かなくても見る事が出来て良かった。オスロは地図を見ると海沿いに位置していると思われるが、かなり海岸線から内陸部に位置している都市であった。オスロ郊外の景色も素晴らしかった。
この列車は空いていた。そして、車掌はスラットして制服が良く似合い、この職が板についている感じがした。
 列車は終点のサルプスボルに到着、ここはまだノルウェー領内であった。〝ホームは低く〟(ヨーロッパのホームは何処でも低い)、我々は上り線路を横切って田舎風の駅舎を出た。 
 こんな田舎町で何か見る物があるのか分らないが、ただ大都市だけを駆け回るだけではなく、地方の、或は田舎の何かを見るのも一見に値するし、何かを感じられるし、そして人との関わりもそこから生まれるのではと思うし、旅の良さ、良い旅の発見もそんな所に潜んでいるのでは、と思った。運良く、ここにユースホステルもあるので1泊する事に決めた。駅員にユースの道順を教えてもらい、我々はぶらぶらと歩き始めた。
 天気は良く、暑くもなく、知らない所をぶらぶら歩くのも最高であった。家々は整然と建てられ又、自然と調和が良く保たれ、美しかった。住宅を建てる場合は、周辺及び自然との調和が大切である事を発見した。と言うのは、日本は調和の捉え方・考え方がなかった。
 ユースへ行く途中、我々はトボトボと歩いていたら、家の壁を白いペンキで塗っているおじさんから声を掛けられた。
「何処から来たのかね」と彼。
「日本からです」と私。
「第2次世界大戦前、船員として日本へ行った事があるよ。日本は良い所だったよ。家の中に入ってくれ」と彼は言った。私はお茶の一杯でもご馳走になれるかと期待し、鈴木と共に家の中に入った。
大掃除の途中らしく、奥さんは居たが、掃除や片付けで忙しそうであった。その家は1階建でそれ程広い感じはしなかったが、室内は小奇麗にしているように感じられた。彼は部屋の間取りを説明したり、昔、日本に行った時に手に入れた陶芸品を説明してくれたりした。私は記念に日本の絵葉書を上げた。しかし遠い日本から来て、わざわざ向こうから家に招いたのになかなか茶も出ず、相手も出す様子はなかった。大掃除中でもあり、15分程居てお暇する事にした。
彼は自分の家と部屋の飾り物を自慢げに話していただけで、何て事はなかった。日本では自分の家に招き入れれば、お茶の一杯ぐらい出すのが一般的であるが、これも国民性の相異かもしれなかった。
 我々は再び歩き出した。あちこちと歩き回る場合、トランクは重く、持ち運びに不便であった。『リュックにすれば良かった』と何遍も後悔した。勿論、相棒の鈴木も同じであった。
丸木で作られたコテージ風のユースにやっと着いた。ホステラー(ユースの宿泊者)は、誰も居なかった。部屋で休んでいたら、間もなくしてオスロのユースで見掛けた、あのちょび髭を生やした日本人が入って来た。「やぁ、又会いましたね」と我々は再会を喜んだ。我々は彼と色々と話し合った。彼は髭・髪を伸ばし、リックを背負ってヨーロッパをヒッチ旅行している人であった。私にとって旅慣れたこんな日本人に逢ったのは初めてであり、彼はちょっと私と違った人と感じたが、私もこんな旅に憧れていた。
彼の名は「荻」と言って今日、オスロからヒッチで来たと言う。彼は京大生で休学してこちらに来ていた。又デンマークのクリーニング店で仕事をしたり、スイスのイタリアン・レストランで料理人の仕事をしたりして、色々な経験を外国で積んでいた。又、彼はイギリスで英語の勉強をしているが今、夏期休暇なので旅をしているとの事であった。私はそんな荻が羨ましかったし、私も彼の様に色々な経験をしてみたいと思った。
 夕食は、ユース前にストアがあるので、そこでパンとミルクを買って済ませた。わびしい食事だが、我慢・我慢の連続だ。体を壊さなければ良いが、と願うのであった。宿泊客が少なく静かであった。久し振りにゆっくり寝られそうなので、早めに寝た。