YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

モスクワの旅~社会主義に思う事

2021-07-17 14:22:20 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年7月17日(水)小雨後曇り(社会主義に思う事)
   ―観光の話は省略。―
 午後は自由時間となり、自分の好きな所へグループを作って出掛けた。私は橋本さんと大学准教授の森本敏さん(野田政権当時の防衛大臣)の3人で、有名なゴーリキ通り(モスクワの銀座)へ出掛けた。外国での散策と言うか、ブラブラと街を歩くだけでも物珍しい物を発見したり出逢ったり、とにかく色々な物に対して新鮮さを感じ、とても楽しかった。
 その足で我々は革命博物館へ行った。ロシアの第1、第2革命、及び10月革命等に於けるレーニンの革命の記述、それから彼が使った椅子、机、ノート等日用品が展示され、革命が起こるべきして起こった印象を得、偉大なレーニンの再発見でもあった。なお、この館の中での写真撮影は禁止であった。
 帰り際に道に迷った我々は、博物館の中で出会った高校生らしき若者に助けられた。彼は我々の為に自分のお金で地下鉄の改札口を開扉してくれて、ウクライナホテルがある最寄り駅まで連れて来てくれた。何と親切な学生であろうか。特に異国の地では、人の親切が身に沁みた。彼の行為に対し、感謝の印として森本さんがボールペンを渡した。彼は喜んで胸に付けてあったレーニンのバッジを取り外し、彼の胸に付けた。我々はそのタイミングの良さに感心し、彼と握手して別れた。
 彼を含めてソ連人の喜ばれる物を我々は既に知っていた。ナホトカやハバロスクで、子供達が「チュウイングガム、チュウイングガム」と言って寄って来た。与えてやると彼等は、小さなレーニンバッジを引き換えにくれた。学生達は我々が公園や街のベンチに座っているとボールペンを求めて来たり、闇関係の男達はセイコーの時計やドルを、又女性達はナイロンの靴下を求めて声を掛けて来た。ソ連はこれらの品物が大量に出回っていないので、貴重品の部類に入るのであろう。彼等は物乞いや乞食の様な感じはしなかったが、消費生活に於いて満たされないソ連の現状のワンシーンを見た。
 ホテルで夕食を取った後、鈴木さん(仮称、以後敬称省略)、照井さん(仮称、以後敬称省略)、そして私の三人はゴーリキ通り周辺へ散歩に出掛けた。我々はビールで一杯やろうと言う事で、裏通りやあちらこちら探したが、東京の様な飲み屋は全く見当たらなかった。
  『仕方がないのでレストランでも入って飲もう』と思っていたら、何処の店も待っている人の行列で、混んでいた。この時、私は用を足したくなったので、あるレストランのトイレを借りた。しかし、モスクワ一番の繁華街で表向きは綺麗なレストランであったが、トイレは余りにも汚く臭いのでビックリした。ウンコをする所は、日本式(ぽっとん便所)でも西洋式(水洗)でもない、私の未体験のトイレであった。仲間達の情報によると、何もここのレストランだけが汚く、臭いのではないらしかった。概してソ連のトイレは、似たり寄ったりと、の事であった。日本の一般的家庭のぽっとん便所の方がよっぽどましで、彼らの衛生概念の低さはどうなっているのであろうか、と思った。その様なトイレで用が足せるソ連人の我慢強さには、〝インド人もビックリ〟(どの様な訳か、日本でこの言葉が流行っていた)したであろう。
いずれにしても飲み屋、或いはバーの様な酒場を探すことは出来なかった。要するに、『ソ連には飲み屋が無い』と我々は判断した。
 我々が公園のベンチに座っていると、ドル買いやセイコーの時計を買い求めるおじさん達が五月蝿かった。崇高な社会主義の理想に邁進しているソ連で、こんな人々が存在していると思うと、あの革命はいったい何であったのであろうか。私は疑問を感じた。
 我々は飲むのを諦めきれず、先程見掛けた『メトロホテル』と言うホテルへ入る事にした。所が入ったのは良いが、私は一瞬、躊躇を感じてしまった。鈴木と照井も入った瞬間、その雰囲気に躊躇したようだ。と言うのは、ホールは豪華で立派過ぎたのであった。ホールも然る事ながら、辺りを見ると皆、貴族の様に着飾った人々で各テーブルは賑わっていた。舞台には多くの演奏家が配置されてオーケストラで、ゲスト用のテーブルと舞台の間には広くスペースが取られ、シャンデリアの下で紳士淑女がダンスをしていて、豪華絢爛まるで宮廷の雰囲気が漂っていた。私はこの国が労働者階級と言うか、プロレタリア階級の国であることを一瞬疑った。誰からともなく、「ここで飲もうぜ」と言って席を探していたら、ボーイが近寄って来て、一番後ろの空いているテーブルを案内してくれた。我々3人とも背広を着ていて、恥をかかずに済んだ。他のボーイが注文を取りに来たので、「ピーボ」(ビールの意味)と言って指3本立てた。1本50コペイカ(200円)で、格式ある雰囲気の割に安くて助かった。私は、「これから多くの国、そして出来るだけ長く旅を続けよう」と思っていたので、本当はビールなんか飲んで贅沢していられなかった。回りのテーブルを見ると我々の注文は余りにも貧しく、場違いであったが、構わず11時までここで話しを積もらせた。
私はこの2人と今日初めて話をした。そして彼等も私と同じように、「会社を辞めて出て来た」との事であった。話をしている内、お互い気持が打ち解け、「以後、共に旅をしよう」と言う事になった。帰りは地下鉄に乗って帰って来た。


△モスクワのある果物売店(キヨスク)にて~今日、飲み屋を探していると果物を売っている小さな売店を見掛けた。品数、種類も少ない、それなのに長い行列を作ってまで買い求めていた。そんな光景が珍しく、私は写真を撮ったらおばさん達に睨まれ、そして捲し立てられる様に怒鳴られた。凄く怖かった。どうも市民生活を撮ってはいけない感じであった。