YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

船 旅~出発前の出来事と出航

2021-07-13 14:08:46 | 「YOSHIの果てしない旅」 第2章 ソ連の旅
・昭和43年(1968年)7月13日(土)晴れ(出発前の出来事と出航) 
 いよいよ出発の日だ。この旅路に何年想いを馳せて来た事か。私の大事な1歩が今、始まった。狭山ヶ丘駅1番電車に乗る為、4時30分に起きた。天候は晴れで、幸先は良かった。
 それにしても今日は眠かった。それは無理もなかった。昨日、私は職場へ挨拶に行って、その足で丸の内のJTBへ行き、ヘルシンキ~ストックホルム間の乗船券および傷害保険証を受け取った。その後、丸の内ホテルへ行って最後の打ち合わせの“集会”(ソ連は自由民主主義国と違って、色々な制限・制約があり、行動においても注意すべき点等の申し合わせ)に参加した。帰寮してから最終のチェック・準備等々で、1日中忙しかった。10時頃に床に着いたが、色々な事が頭に浮かんで寝られず、モンモンとしていると、同部屋のM君が午前0時頃、夜遊びから帰って来た。彼はいつもそうだが、気を使って常に静かに寝てくれた。そうこうしていと夜中の2時頃、何回もノックの音がするのでドアを開けたらS君が、「妻と喧嘩して家を飛び出して来た。一晩泊めてくれ」と言って入って来た。深夜の2時過ぎ、しかも彼は私が外国へ行く為に朝早く出発する事を知っていると思ったが、彼の事なので断れなかった。そしてシングルベットに2人で寝た。3時過ぎまで寝ながら喧嘩の原因を聞き、話し合った。そんな事で一睡も出来ず、一番電車に乗る為に4時半に起きる事になった。
 朝早く、T君と同室のM君が私の見送りの為、一緒に付いて来てくれた。不安な私なので2人の気持が有難かった。渋谷から東急東横線経由で横浜駅に着いたが、それまで途中ずっと、『鉄道事故が発生し、万が一遅れて乗船出来なかったらどうしよう』と不安でならなかった。横浜ターミナル・ビルに着いた時は、本当にホットした。そんなこんなで、『昨日、横浜のホテルに宿泊すれば良かった』とつくづく思った。
 出国手続をしている内に、両親を始め家族、会社の先輩や同期、寮の仲間、学友、友達等が桟橋に私の見送りの為に集まって来てくれた。
「元気で行って来いよ」「頑張れよ」「手紙書けよ」と皆がそれぞれ励ましの言葉を言ってくれた。しかし、両親だけは何も語らなかった。否、何も言わなくともお互い通じ合っていたのだ。励ましの言葉と共にOさんから、「邪魔にならないから」と言ってカラーフイルムを、そしてA君からは、「シーラのおとうさんに」とライターをそれぞれプレゼントしてくれた。心温まる贈り物を本当に有難かった。「有難う。皆も元気で。それでは行って来ます」と言って私はタラップを上った。
 10時30分出航。ドラが鳴り、蛍の光の音楽が流れた。至る所から五色のテープが投げられ、それは美しい光景であった。ソ連船ハバロフスク号は、静かにそしてゆっくりと岸壁を離れてた。私とOさんを結ぶテープは、最後の最後まで切れずに残っていたが、終に切れて海の中へ落ちた。私は皆が見えなくなるまでデッキを離れずにいた。「行って来ます。皆元気で居て下さい。祖国日本、私は行きます。そして無事に戻ります」と何度も何度も心の中で叫んだ。
 なんと素晴らしい出航風景であった事か。映画で何回かこの様なシーンを見た事があったが、実際に初めてである私にとって、生涯忘れ得ぬ光景になった。第三者は、この出航風景は『大袈裟じみている』と思うかもしれませんが、私にとっても他の旅人にとってもそうでない、と思った。それは未知の国へ行く事、それ自体が如何に不安であり、又困難が待っているか計り知れない何かがあるからだ。それにしても、私の出国がこんなにも盛大な見送りになるとは、思ってなかった。皆さん、有難う。私は本当に感無量でしあった。

△横浜からの出港風景~両親、兄弟、学友や会社の仲間達が見送りに来てくれた。
 
 私はセンチメンタリズムなので出航の際、涙を流すと思っていたが、いささか平常心であった。家族、友達、仲間、そして、祖国日本との別れで寂しい、悲しい感じがすると思っていたのに、『外国へ行く』と言う事が嬉しさに変わり、それを打ち消してくれたのか。とにかく、デッキから遠ざかって行く日本をもう一度見て、心の中で『良い旅が出来ますように。そして健康でありますように』と祈った。
 私はデッキから209号室の船室に戻った。間もなくすると、私と同年齢位の人が入って来て、彼と色々な話をした。彼の名前は、小田さん(仮称以後、敬称省略)と言って、私より1つ若かった。その彼は、ウィーンまでの切符と外貨200ドルだけ持ち、ヨーロッパへ行く、と話した。また、滞在費用、及び帰りの費用はドイツ辺りで仕事を見付ける、との事。帰りが保障されてない彼の旅は、不安であろう、と私は思った。しかし、そんな旅を私も夢見た事があったので、ある反面、彼の行動が羨ましかった。それから一年後、彼から手紙を貰って分った事だが、彼はその後、ドイツ、北欧で野宿しながら仕事をして、日本に帰国した。そして無理が祟って結核を罹ってしまった、との事であった。
暫らくの間、小田君と話をしていたら、橋本さん(仮称、40歳代後半から50歳位の方)が入って来た。彼は国際キリスト教会議に参加する為、ヨーロッパへ行くとの事であった。この2人が私のルームメイト、人の良さそうな仲間でホッとした。3人で話をしていたら14時頃、ロシア語、英語、日本語で昼食のアナウンスがあった。
 日本を出国して初めての食事、しかもロシア料理であった。最初、私にとってロシア料理は口に合わなかった。しかしこのテーブル係りのソ連の娘さんは、陽気で愛想が良く、とても親切に接待してくれた。以前、ソ連人(時には「ロシア人」とも言う)は、サービスが悪いと聞いていた。しかし、彼女の持て成しでこのテーブルの人達は、皆ご満悦であった。以後、食事時間が船内で最大の楽しみになった。
16時頃から船は外洋に出た為か、揺れる(ローリング)ようになり、私は気分が悪くなって来た。その船酔いの為、17時15分のティータイム、それから20時の夕食時は、余り食べられなかった。因みに翌日の朝食時間は、9時30分であった。
 この船は、『ハバロスク号』と言い、横浜~ナホトカ間航路の客貨船であった。乗船客の殆どが日本人60名程、後はアメリカ人3人が乗船していた。銚子沖(?)航行中の20時30分頃、「時計を1時間早くセットして下さい」とアナウンスがあった。ソ連時間に合わせて下さい、と言う事らしい。
  今日は、本当に色々な事があった。あれほど憧れていた外国、そして今、私は既に洋上の人になってしまった。22時、船酔いしながら床に着いた。