YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ストックホルムの旅~ヒッピーの話

2021-07-22 15:20:09 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
△上の写真はストックホルム市庁舎前でヒッピーまがいの人達と日光浴

*ヒッピーの話
西ヨーロッパの大都会では、至る所ヒッピーの姿が目に付いた。このストックホルムも例外ではなく、街を歩いていると、あちこちと屯(たむろ)しているヒッピー達を見掛けた。しかしここのヒッピーは、他の国のヒッピーと比べて上から下までファッション的でセンスが良かった。女性は特に美人ぞろいで、さすが〝スウェーデン〟(日本では当時この国を『フリー・セックスの国』と言うイメージを抱いていた)だと思った。
 私は最初、ヒッピーに対し少し違和感があった。しかしその内に何も感じなくなり、ヨーロッパに来て1ヶ月後には親しみを感じて来た程であった。そして最後は、私もヒッピー気取をするようになってしまった。そんな事で、私の感じたヒッピーについて話をしてみようと思う。
 彼等は人に金品をたかったり、暴力行為をしり、悪意を持って迷惑を掛けたりしていないのだ。『ヒッピーは、労働しない、無気力であり、何処でもたむろし、ハシシ等を吸って一時的な逃避、或いは、悦楽を楽しんでいる反社会的な存在である』と一般的に思われていた。 
しかし彼等から言わせれば、今の体制的腐敗構造、貧富の差、戦争等々の非人間的社会現象の全てに対しディスガスティング(胸糞悪い)であり、ナンセンスであると感じているのであった。
〝ヒッピー・スピリット〟(精神)の第1は、『今の体制に背を向ける』事であり、第2は、『平等の精神』であり、第3は、『愛』であり、第4は、『無』(欲を出さない)であるらしい。
『平等の精神』とは、富める者が貧者に分け与える、イスラムやヒンドゥ教的な考えである。そして、金銭・物質的のみならず精神的なものも含まれる。
『愛』とは、一夫一婦制的なものではなく、全て全体的にとらえる考え方、即ち男性であればセックス面のみならず、全ての女性を愛する、愛を求める事が出来ると言う考え方。又、女性の立場からも同じである。
『無』とは、金銭・物質面に於いて、欲を出さない、持たない、とする考え方。
事実、地中海のスペイン領のある島にヒッピーだけの社会があるらしいし、アメリカの砂漠に彼等だけの社会(ヒッピーのユートピア)を造ろう、と言う動きもあるらしい。
 彼等の聖域として、冬はインドへ、夏はネパールやモロッコへ流れている。これらの国はハシシが簡単に手に入る国であり、毛布1枚で安く何処でも過ごせる、と言う利点を持った国ある。秋の終り頃からヨーロッパ各地のヒッピー達は、中近東経由で薬を求めてインドへ移動するらしい。
私はインドに滞在中、ヒッピー・スタイルの様な格好をしていたから、時にはインド人からハシシを持っているから買わないか、と何度か薦められた事があった。安く手に入り、ヨーロッパでは50倍近くで売れるらしい。途中の国境での出入国管理事務所に於いて、手荷物検査は殆どないし、持ち帰る事は充分可能である。
 ヒッピーの一般的なスタイルは、髪を長くし、首飾りを幾つもしていた。女性はその他に、腕に腕輪をして飾っていた。男女ともワイシャツの様な長い服をダラット着て、ジーパンと皮製のサンダルを履き、布製のバッグを肩から掛けているのが一般的であった。
 ヒッピーと言っても前に述べた様な①その精神を持った哲学的要素を身に付けた者、②ファッション的な格好だけをしている者、③そして、その中間に位置する者等に分けられる。ストックホルムのヒッピーは②に属する人達であった。イギリス滞在後、私のヒッピー精神、気持として③に属していた。
 ともあれヒッピーは、現在社会からの逃避者、敗北者であると思われていた。公共建物前階段、公園、街角、繁華街の目抜き通り等、辺り構わず“屯”(たむろ)して一般市民の顰蹙をかっているのが現状であった。
彼等は、社会のアウトローであるかもしれないが、私は彼らに一種の親しみを感じられた。私自身も、『この社会、世の中は矛盾だらけと感じているし、その体制をぶち壊してやりたい心境を感じるし、背を向けたい要素もあった』。実際、ヒッピー達は他の人に直接に危害や迷惑を加えていないし、彼等の目線で接して行けば仲間に加えてくれるし、運が良ければ〝回し飲み〟(輪になって座り、マドロス・パイプにきざみタバコと共にハシシを削って入れて、それを回しながら皆で吸う事)に加わることも出来た。こちら側から彼等を軽蔑な目で見るのも良いが、逆に彼等に加わってあちら側からこちら側の人々や社会を見ると、不思議な事に又異なった物の見方・考え方が見えて来るものだ。
いずれにしてもヒッピーは、60年代から70年代の資本主義社会の経済成長(衰退)のプロセスにおける『落とし子』と言えるであろう。


ストックホルムの旅~バルト海船上で17歳の若者と口論

2021-07-22 15:06:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
・昭和43年7月22日(月)晴れ(バルト海船上で17歳の若者と口論)     
*参考=スウェーデンの1クローネ(Krona)は、約70円(1オーレは、70銭)。

 昨夜、私を含めて2等キャビンの人達は、毛布なしで直に床に寝た。非常に寒く、そして長い夜であった。こんなに寒い中を一晩過ごした経験は過ってなかった。勿論、船員に毛布を貸してくれるよう尋ねたのですが、2等用には備えがないとの事で、ブルブルと震えながら一晩過したのでした。
やっと朝の5時頃になったので、私は体を温めようとシャワー浴びた。しかし、その時は温まったので良かったが、後になって反って寒くなってしった。体が丈夫の方ではないので風邪を引くのでは、と心配してしまった。日本の夏は夜でも非常に蒸し暑いので、『いくら北欧でもカーデガンがあれば大丈夫であろう』と思い込んでいた。外国へ行って見たいと強い想いがあった割に、諸外国事情を全く知らなかった私の認識不足は甚だしかった。私が持って来た衣類と言えばカーデガン1着、靴下数組、パンツ数枚、半袖下着数枚、半袖シャツ2枚、ワイシャツ2枚、背広1着、ズボン1着であった。どちらかと言えば、夏向きの支度であった。緯度的に考えればそれなりの支度が必要であったが、それが私の欠点であった。以後、何度も夜間や朝方の寒さに悩まされた。「セーターや冬用の上着、シャツも持参すべきであった」と何遍も後悔した。いずれにしてもこれは、これから多くの失敗を重ねるほんの1例であったのだ。
ストックホルムに近付くにつれて、小さな島が幾つも散在するようになって来た。船は入り江の奥深く進んでいた。海ではなく、あたかも湖の中を小さな島が多くあり、それらを縫って行く様な感じで、素晴らしい眺めであった。デッキでその光景を眺めていると、やくざ風のサングラスを掛け、一見して20歳以下と分る若者が一丁前にタバコを吸っているのを見掛け、「あなたは何人ですか」と私は尋ねた。
「スウェーデン人です」と彼。
「そして幾つですか」と私。
「17歳だが」と彼。
「スウェーデンは17歳がタバコを吸って良いのか。日本では20歳にならないと吸ってはいけない事になっているのだが」と私。
「スウェーデンも同じだが、貴方に関係ないだろう」と彼は怒り出した。
「若造の癖に生意気な事を言うな」とこちらも言い返した。
しかし、余り怒らせてトラブルになるのも詰らないので今度、宥めに入った。
「大きなお世話かもしれないが、吸いすぎると体に悪いから注意したたけだよ。友達になろう」と私は言って彼に握手を求めると、彼も握手して来た。
「記念に写真を撮ろう」と言って私は彼と肩を組んで写真を撮った。

                         
   △ストックホルム入港前で生粋な彼と仲直り記念写真

 私は如何してこんな事を言い出したのか、後になって不思議であった。彼は色眼鏡を掛け、ジャケットを着て、余りにも一丁前にタバコを吹かしていたのでからかいたくなったのは事実であった。しかし後で分った事であるが、17歳はまだ良い方であった。ヨーロッパでは、小学校低学年齢の子供達も吸っているのが実際であった。
 船はほぼ予定通りの8時30分、ストックホルム港に着岸した。鶴村さんの弟さんは迎えに来ていた。その彼はあるホテルでボーイの仕事をしていて今回、8年振りの再会であった。私は鶴村さんがヘルシンキ・ストックホルム間の乗船券を所持してないのでその乗船券の手配や又、何日の何時、何処の会社の何の言う船がストックホルムに着くから、迎えに来るよう電報文を打って上げたのだ。照井、鈴木と共に鶴村さんを連れて来た様なものであった。
そんな鶴村さんが、弟(30~33歳位)を我々に紹介し、「ここまで3人にお世話になった」旨を話した。しかし、彼は何の挨拶も一言の言葉もなかった。普通「兄がお世話になり、有難う御座いました」、と言うのが常識であろう。私は彼が何か同邦人ではない感じを受けた。と言うより彼の態度は、『私は貴方達と関わりを持ちたくありません』と言う感じであった。しかし、私は彼がここでホテルのボーイをしているし、8年も住んでいるので宿泊施設の情報を良く知っていると思って、「何処か安く泊まれる所があれば教えて貰いたい」と彼に尋ねてみた。すると、「ユース・ホステルか、観光案内所へ行って聞いてみれば」と彼の素っ気ない言葉が返って来た。彼に言われなくても、私はそうするつもりであったが、何らかの期待を持ったのがいけなかった。日本から遥々、兄と共に遣って来た我々に対し余りにもつれない言葉に、全く好かない奴であった。彼は兄を車に乗せ、さっさと走り去って行った。我々3人は、呆気に取られてしまって言葉もなかった。
その後、私がロンドン滞在中、妹の手紙と共に彼の手紙が同封されて来て、 鶴村さんは「弟と車で1ヶ月間ヨーロッパを旅行して、一人で中近東経由インドのデリーから飛行機で帰国した」との事であった
所で、異国の地において邦人同士が会っても互いに背を向けると言うか、話したがらない人達にも会ったが、嫌な感じであった。

―――ストックホルム観光巡りの話は省略―――

泊まる所が決まっていない観光は、何となく落ち着かない感じがした。しかも昨夜、寒さの為に一睡も出来なかった私にとって、市内観光巡りで歩き回るのは、非常に疲れを感じた。 
午後4時になったので再度、ユース・ホステルやYMCAに電話をしてみたが、又も満員で断られてしまった。仕方なく再度、駅観光案内所へ行って、安いホテルかペンションをお願いしたが、やはり満員で断られてしまった。野宿する訳にいかないので、強い口調で三度、私は女性スタッフに頼み込んだ。「我々は、何処で泊まれば良いのですか。公園のベンチに寝ろと言うのですか。夜の屋外は寒いので耐えられません。それに、我々は疲れているのでゆっくり休みたいのです。どうかお願いですから安いペンションを探して下さい」と訴えた。
「それでは、暫らく待って下さい」と言った彼女は、何処かあちこち電話をしてくれた。
3人の内、いつも交渉役は私でした。そして満員と言っても強く交渉すれば何とかなるもので、彼女は安い〝ペンション〟(日本の民宿の様な感じの宿泊所で、同じ部屋にベッドが複数ある)を探してくれた。
ペンションと言っても、相部屋で泊まるだけで1人30クローネ(約2,100円)であった。北欧、特にスウェーデンは非常に物価が高かった。日本で70円のハイライトの様なタバコが、ここは700円ぐらいした。酒場の小瓶のビール100円がこちらは600円した。平均日本の7倍から10倍高かった。私みたいなケチケチ旅行者にとって、スウェーデンは長く滞在する様な国ではなかった。
大野から夜、「私達(大野と山下)は、明日、オスロまでヒッチするので貴方達もやらない。どちらが先に着くか競争しようよ」との電話があった。明日、私と鈴木は、ストックホルムからオスロまでヒッチ・ハイクの旅をすることにした。
 今日は疲れたので早く寝ることにした。それでも午後10時であった。