YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ストックホルム・オスロ間ヒッチハイクの旅~ヒッチハイクの話

2021-07-23 16:31:09 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
*ヒッチ・ハイクの話
ヒッチとは、「ヒッチハイキング、又はヒッチハイク」とも言う。車を停めて無料で乗せてもらう、誠に図々しい旅行の方法あり、相手の親切心だけが頼りなのだ。最近、ヨーロッパでは若者旅行者の間で流行っていた。
ヒッチの仕方として、ドライヴァから見て遠く前方に、『ヒッチをしているな』と言う認識と、『乗せて上げよう』と決断するまでの時間的、距離的な空間が大事であった。そして、ヒッチをしている場所が車を停められる余地があるのか、停まった時に後方車に追突されず、且つ安全であるのか、その場所選びが非常に重要であった。  
ヒッチ合図は、親指を延ばし(残り4本の指は折り曲げた状態)、親指の先を行き先方向に指し、左側通行の国は右から左へ、右側通行の国は左から右へ車が来たら腕を数回移動させる。スウェーデン、ノルウェー、イギリス、ユーゴスラビア、ギリシャ、オーストラリアなどは左側通行、フランス、イタリアなどは右側通行であった。
ドライヴァ達は、1人運転がつまらなかったり、寂しかったり、親切心であったり、ヒッチ者が哀れに感じた時等々、その時の精神状態、運転状況でピックアップして貰える(乗せて貰える)可能性が充分あるのだ。
 ヒッチは「100%安全である」、と言う保証がない。交通事故は勿論、金品強奪、女性では強姦等、危険は付き物と推測される。フランスで出逢ったカナダ人から、「ホモにやられた」と聞かされたり、又私もイスラエルやユーゴスラビアで危険を感じたりした事もあった。反対にドライヴァ達も、その危険性を感じているでしょう。その様な訳で、男性と女性を比較して、男性のヒッチ率は低いし、男性が複数の場合、その人数増加に比例してヒッチ率はもっと低くなる。
 ヒッチは天候が良ければ楽しいが、降雨、降雪、或いは寒風等の時、辛い旅になった。勿論そんな日のヒッチ率は、極端に落ちる。1時間、2時間、3時間、道路端で立ちっぱなしは当たり前、時に半日過ぎても乗せて貰えない場合、本当に悲しくなり、自分自身が哀れに感じる事もあった。 


ストックホルム・オスロ間ヒッチハイクの旅~ヒッチでストックホルムからオスロまで大野・山下と競争

2021-07-23 08:46:29 | 「YOSHIの果てしない旅」 第3章 北欧三国の旅
・昭和43年7月23日(火)晴れ後時々雨後曇り(ヒッチでオスロまで競争)
 8時30分頃、大野さんから電話で、「今からオスロに向けてヒッチハイクで旅発つ」と連絡があった。私と鈴木もヒッチでオスロへ行く事にした。照井は列車でスウェーデンを北上するとの事で、我々(私と鈴木)は照井と別れなければならなかった。
振り返れば照井とは、ソ連経由の一団でモスクワ滞在中に知り合い、メトロホテルへ飲みに行き、鈴木と共に意気投合した間柄であった。それ以来6日間、共に旅をして来た仲間であった。旅とは、人との出逢いであり、又、別れる運命であった。寂しいが、それが旅であった。彼の今後の旅の幸運を祈った。
ヒッチするのには、郊外に出ての方がやり易いと判断、地下鉄に乗った。地下鉄の駅のホーム側壁は、カラフルで色々な絵が描かれ、各駅によってそれが異なり、その駅の特色を表していた。したがって、駅名表示板を見なくても何処の駅か直ぐ分るようになっていた。東京の地下鉄は、構内が同じ様なので下車の際、必ず駅名表示板か案内放送で確かめ、降りなければならない。ここの地下鉄は、ホームに到着する度に絵を楽しめるし、駅構内も車内も綺麗で感心した。
 我々は、終点駅の1つ手前の駅で下車し、オスロに通じる街道に出てヒッチする事にした。
夏と言っても北欧の夏は暑くはなく、ヒッチには最高の天気であった。重いトランクを持って街道を歩き、車が停まり易い場所を選んだ。道路は4車線、街道沿いにガソリンスタンドや自動車販売店があり、回りの景色は何の変哲もない、ありふれた日本の何処にでも見られる、そんな光景であった。しかし、時にはタイヤがたくさん付いている、15トンから20トンもありそうな、超大型のトレーラーが目の前を走っているのに驚いた。乗用車は、ホルクスワーゲンが多く走っていた。
 乗せてくれそうな乗用車が向こうから走って来たので、勇気を出して〝ヒッチ合図〟(手を結び親指だけを立てて、自分が行く方向に数回振る)をした。だがその車はスーッと通り過ぎて行ってしまった。ヒッチ合図をするのに戸惑いがあったので、最初は本当に勇気が必要であった。 
 2台目が来たので合図をした。その車は、速度を落とし我々の前を過ぎて道路左隅に停まった。その瞬間、大きな魚を釣り上げた様な、そんな手応えを感じた。これが外国で最初のヒッチであった。
 日本での最初のヒッチは、私が高校1年の時であった。埼玉県の熊谷球場に於いて高校野球の応援の為、深谷から熊谷まで17号国道で学友とヒッチをして、トラックに乗せてもらった事が1度あった。因に地元民は、中仙道と並行して新しく出来たので「新国道」と言っていた。
今日は、それ以来のヒッチであった。私は旅行の交通手段の1つである思っていたし、ヨーロッパでも是非、ヒッチで旅をしたいと思っていた。
初めて停まってくれた車中には、感じのよい親子4人が乗っていた。言葉が上手くお互い通じない為、2言3言で後は、無言状態であった。ヒッチハイクを楽しむ間もなく、15~20km走った距離ぐらいでご主人が、「ここで降りて下さい。私達の家はここを曲がって、真っ直ぐ行った所ですから」と下車催促。「そうですか。有難う御座いました。これは私の気持です」と言って、私は日本の絵葉書数枚を感謝の気持を込めて渡した。車は角を曲がり、子供が見えなくなるまで我々に手を振っていた。
少ない距離であったが、我々の為に乗せてくれたその行為は、大変嬉しく感じた。私は今回の旅行で親切にしてもらった時、日本を知って貰う意味を込めて、日光や箱根の絵葉書を持って来ていた。しかし以後、短い距離の場合は数も限りがあるので渡さない事にした。
 ちょうど降ろされた場所に、リックを背負った外国人ヒッチハイカー(我々もそうであるが)が居た。同じ旅人同士なので、私は気楽に話し掛けた。
「私達は日本から来たのですが、失礼ですがどちらの国から来られたのですか」と私。
「日本ですか。私はオーストラリアからです」と彼。そう言えば、彼のリックに小さな国旗が縫い合わせてあった。外国の若い旅人は、自分達の小さな国旗をリックに縫い合わせていた。以後、ちょくちょくそんな各国の国旗を見掛けた。一種のナショナリズムなのであろうか。  
私も日本を脱出して凄く日本、或は日本人であると言う事に自然と意識するようになあった。ナショナリズムを意識していなくても、外に出れば必然的に感じる、それは至極当然であると思った。他の国民は、日本よりもっと国歌や国旗と言うものに対し、身近の生活面に取り入れているのが現状であった。 
私は、オーストラリア人の彼に「グッド・ラッグ」と言って先に進んだ。と言うのは、彼のヒッチポイントから後方に立つ事は、マナー違反になるからであった。
 時間を見ると正午であった。空模様もおかしくなり、とうとう雨が降り出して来た。まだ、20キロ位しか進んでいないのであった。道路脇にある木の下で雨宿りをしながら、交互でヒッチ合図をしながらパンと牛乳の食事を取った。  
多くの車が我々の前を通り過ぎて行った。なかなか停まってくれず、ヒッチ率は非常に悪かった。2台目は、1時間以上経ってやっと停まってくれた。ヒッチするのにこんなに時間が掛かり、非能率的だとは思わなかった。そしてやっと乗せて貰った車は、5キロ程で降ろされた。余りにも短い距離なのでガッカリ。幸いに、雨は止んでいた。
3台目は10キロ程、4台目は50キロ程、乗せて貰った。ヒッチ中、タイヤが20も30もある超大型トラックや多くのキャンピングカーが通り過ぎて行った。5台目の車は、中年のおじさんでかなりの距離を乗せて貰った。降ろされた場所が町とオスロへ行く道の交差点であった。向こうから青年が2人やって来たので話し掛けた。「スウェーデンではどの様にしたら上手く車に乗せて貰えるのでしょうか」と尋ねたら、彼等はヒッチ合図の真似をして、「グッド・ラック」と言って通り過ぎて行った。当たり前の事であった。
 ここで暫らくの間、ヒッチ出来なかった。4時が過ぎた頃、大野と山下が乗っている車に拾われた。ここで彼女達に会うとは驚きであった。我々の方がノンビリと言うのか、ヒッチに苦労していると思ったのに、彼女達も苦労しているようであった。この6台目の車は高速道路ではないのに、80km位飛ばした。でも1時間で降ろされてしまった。
 4人一緒に居るとヒッチ率が落ちるので、別れてヒッチする事にした。彼女達が先に車をゲットし、行ってしまった。7台目、8台目の車もほんのわずかな距離だけであった。
この辺りは人家も見当たらない山の中、しかも薄暗くなる時間帯に成りつつあったので、1人で居ると寂しい場所であった。街道を歩いていたら、有り難い事に合図もしないのに、向こうから9台目の車が停まってくれた。ドライバーはドイツ人、彼は車で旅行しているとの事でした。そして車中にもう1人、真っ黒なモロッコ人が乗っていた。彼は学校が夏休みで、ヒッチ旅行中であった。「車は小さいが車中はインターナショナルだ」とドイツ人のドライバーの言葉であった。 
我々の車の前を何回も鹿が横切った。『鹿に注意』の道路標識が所々あった。途中、ドライヴ休憩所でコーヒーをおごって貰った。そして又、我々4人はドライヴを続けた。暫らくして、急に車が止まった。ドイツ人とモロッコ人は、山の中へ入って行った。「どうしたの」と尋ねると、「イチゴ摘みをするから、あなた方も如何ですか」と言うので私と鈴木も、彼等の後に付いて行った。山の中に小さな黒い野イチゴがあちこちあった。
又、ドライヴを続けた。そしてある所で我々3人は降ろされた。モロッコ人は何処かへ消えて行った。時刻は午後8時過ぎ、既に真っ暗であった。ヒッチを続ける時間ではないので我々は何処か泊まる所を探さねばならなかった。我々は本道から分かれた夜道をトボトボ歩き、苦労してユースホステルに9時30分頃に到着した。
寝る前、談話室で皆が熱心にテレビを見ていたので覗き見をしたら何と、仲代達也主演の『人間の条件』をやっていた。感想を聞いたら、スウェーデンでは大変人気がある番組で、評判は良かった。
寝室部屋のベッドが空いてないので、台所に折り畳み式簡易ベッドで寝る事に決まった。それにしても後にも先にも台所に寝かされたのは、この1回だけであった。とにかく屋根の下で毛布に包まって寝られるのだから我慢のしどころで、毛布なしのバルト海の船中より益しであった。実際、ユースは通路の方まで寝ているホステラー(ユース・ホステルの宿泊者)で一杯であった。
 ここは、Lake-Vanern(ヴェーネル湖)の北側に位置し、観光地で有名なKarlstad(カールスタード)の郊外のユースであった。今日、9台乗り継ぎここまで来た。ストックホルムから315km位進んだ事になり、1台平均35km弱であった。
台所で、しかも簡易ベッド、寝心地は悪かった。午前3時頃、明るくなってから眠りに入った。