YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

コペンハーゲンの旅~我々の市内見物の話

2021-07-28 09:09:17 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
*我々の市内見物の話

 私と鈴木の市内観光は、地図を片手に自分の足で多少遠くても、歩いて回るのが原則であった。
旅行会社主催の団体旅行は、見所から次の見所へと時間的に無駄なくバス等で移動し楽である。又、見所に於いてもガイドによる日本語の説明があるので歴史的、或いは美術的について良く理解出来る利点がある。
それに反して団体旅行は途中の過程が空白であり、観光箇所を後で思い出しても何処を見物したのか覚えていない、或は忘れてしまったと言う事が多いのではないか。如何してなのか。理由は簡単、他人任せの楽な観光は、何も思い出として残らないのだ。
 
 我々の市内見物は、団体旅行と違って、何かにつけて時間的な無駄と苦労があった。しかし、自分の見たい所へ行けたし又、時間的制約を受けずじっくり見る事も出来た。そして、何よりも他の人が居ないので、非常に気が楽であった。
地図を便りに苦労しながら、また人に聞きながら見たい所へ歩いて行く、そう言う『過程』が大事であると思った。その過程に於いて人との出逢いがあったり、小さな発見や事件に出逢ったり、そうした中で忘れる事が出来ない鮮明な良き思い出が残った。そして私の脳裏にその過程が線となって結び付いたのです。
 
 市内観光地図は、主要駅、観光案内所、ホテル、或はユース等にて無料(所によって、買わねばならない都市もあった)で手に入れる事が出来た。


コペンハーゲンの旅~コペンの中央駅にビックリ

2021-07-28 06:56:40 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
・昭和43年7月28日(日)晴れ(コペンの中央駅にビックリ)
*参考=デンマークの1クローネは52円(1オーレは52銭) 

 スウェーデンのヘルシングボルから、今度は連絡船に乗り換え、Denmark(デンマーク) のHelsingor(ヘルシンゲル)へ渡った。
ホールデン~Copenhagen(コペンハーゲン)間は、列車から他の列車へ、列車から連絡船へ、連絡船から又、列車への乗り換えの為、不案内、言葉の不自由さ、肌寒いし、夜中で眠いし、鈴木と一緒でも何か寂しい辛い旅であった。ブルガリアの女性が泣いてしまうのも理解出来るのでした。
国境での出入国手続きは、旅券に出入国証明の押印だけで簡単であった。列車は、デンマークのヘルシンゲルから2時間程でコペンハーゲンに到着した。

 朝の7時、コペンハーゲンの駅は、やっと眠りから覚めたようであった。構内のあちこちにゴミが散乱していて、乞食・浮浪者が転々と寝ていたり、或はたむろしていたりして、『これが童話の国、コペンハーゲンの表玄関の中央駅なのかぁ』と逆の意味で感心してしまった。日本の7時台のラッシュアワー時間帯とは、程遠い感じであった。
昨夜は、本当に寒かった。冷えと空腹の為、駅のフード・スタンドでコーヒーとホット・ドッグで朝食を取った。冷え切った体にコーヒーがとても美味しかった。
 
 駅から一歩街へ出ると、落ち着いた綺麗な都市であった。我々はユースへ直接歩いて行き、今日の宿泊の手続きを取った。大部屋に幾つもベッドがあり、各国の若者達で一杯であった。とにかく、疲れているので一休みした。その後、市内見物に出掛けた。

 夕暮れ時、市庁舎前広場に25人程の日本の若者が群れをなしているのを見た。コペンハーゲンで職探しをしている彼等は、仕事が見付らないので広場にたむろし、或いは群れをなして行動していた。
それにしても日本人は、如何して集団を作るのであろうか。白色人種のヨーロッパで黄色人種の日本人が群れをなしたり、屯(たむろ)したりしている姿は、目立つのであった。一般市民からも反感を買うであろう。私から見ても感心しない光景で、『1人か少人数で行動しなさい』と言いたかった。

 夕食後、我々は久し振りに、10人程がやっと座れる小さなカンター・バーでビールを飲んだのだ。小ビン1本(10クローネ、約520円)であったが、喉に染み透るほど美味しかった。モスクワ以来の12日振り、デンマークのビール(ハイネケン)なので、なお更旨かった。
 
 市庁舎前広場からコンゲスニトロフ広場までのストロイエット通りは、車の進入を禁止して歩行者専用の通り(後の日本の『歩行者天国』)になっていて、夜の散歩を楽しむ市民でかなり混雑していた。
その通りの一寸した広場で議論に熱中している人達や、ギターを弾いて大勢の若者が歌を歌ったりしていて誠に賑やかな、活気溢れる通りであった。そんな通りで、ヒッピー達が屯している光景はこれ又、異質な存在として映った。
特に私の眼に留ったのは、その通りの小さな広場で、男性1人がギターを弾きながらハーモニカを吹き、女姓2人の内1人がギターを弾きながら、もう1人の女性が歌を歌っているライブの様子であった。彼等の前の地面に英文で、『今、私達は世界旅行をしているが、お金がなくなって困っています。どうか御報謝をお願いします』と書いてあった。ライブをしながら旅をしているようであった。彼等の格好から推測して、放浪の旅の楽しさ、辛さ、寂しさが感じられ、印象に残ったのだ。このライブ演奏に大勢の歩行者が取り囲み、聴いていた。
『私は、いつまでこの旅が続けられるのか。私も旅費がなくなったら、あの様な事をしながらの旅も良いなぁ』と思った。実際に旅費、自身の健康面、家族、自分の将来等々の事を考えると、常に不安が付きまとっていた。希望としては、最低半年、帰国しないで多くの国を回り、出来れば色々な物を見たり又、経験したりしたいのであった。これは、私の旅の原則であり是非、貫き通したいと思った。
 
 午後10時30分頃、ユースに戻った。寝ている人は誰も居らず、遅くまで騒いでいた。偶然と言うのか、不思議と言うのか、オスロとサルプスボルのユースで逢った荻と、三度ここのユースで会った。彼はヒッチでここに来たのだ。『けっこう早く来られたなぁ』と感心した。今度、いつ何処で彼と巡り会えるか楽しみであり、元気で旅が続けられる事を願うのであった。