△マサオの部屋にて・・・Illustration drawn by Miho Yoshida(By M Yoshida)
・昭和43年(1968年)8月1日(木)晴れ(マサオは優しかった)
私と鈴木はホテルを出て、マサオの部屋へ行って見た。今日も居なかったが、ドアは施錠されていなかった。彼はイギリスから帰って来て、何処か用事で出掛けているのだと思った。彼から手紙で、『いつでも自由に使っても構わない』と言う承諾を得ていたから、私はそうする事にした。
我々は階段を上って3階の10畳程の広さの部屋に入った。部屋には、床に足の無い使い古したベッドと薄汚い毛布2枚、そして壊れそうな箪笥に似た物入れが1つあるだけで、その他は部屋に何も無かった。天井からは裸電が細長い赤布と共に垂れ下がっていた。明かりを点けても薄暗い部屋、これでは本や新聞等が読めない状態であった。
部屋の外の階段脇にあるビデ付きトイレと台所は、隣の部屋のベゼネイラ人と共用であった。部屋の大通りに面した小窓を開けると、外の眺めは良く、パリの香りが部屋の中に入って来たが、この部屋とは余りにも似合わない感じであった。
「パリ滞在中、自由に僕の部屋を使って下さい」と言ってくれた心優しいマサオは、どんな人であろうか。
我々は、荷物をここに置いてパリ見物に出掛け、午後9時30分頃に戻って来た。10時30分頃、2人は小さな薄くて硬いベッドに各自、毛布1枚ずつ身体に巻いて寝た。
間もなく(11時過ぎ頃)したら、マサオが帰って来た。初めて対面した彼は、我々2人を快く迎えてくれた。
彼が留守していた訳は、「イギリスの友達に会いに、一昨日パリをヒッチで出立し、昨日イギリスへ渡ったが、滞在費を持ち合わせていない為に入国出来ず、引き返して来た」と言う事であった。後日の話ですが、私もイギリスへ渡る船中で、滞在費のチェックを受けた事があった。イギリスは、他の西ヨーロッパ諸国の中で一番入国審査が厳しかった。
マサオは、「往復ヒッチで昨夜は、その辺に駐車してあった車の中で寝たが、寒くって辛かった」と話していた。何はともあれ彼は我々を温かく迎えてくれて、親切な感じで良かった。
今夜は遅いので寝る事にした。我々がベッドと毛布を使用しているので、彼の分がなかった。彼は直に床に身を伏せるように寝た。厚着して寝たのでないから、夜中は冷えると思った。我々の為に申し訳ない気がしてならなかった。