YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

パリの旅~語り合いとアラビアコーヒー

2021-08-02 16:53:30 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△セーヌ川に掛かる橋にて~後ろの建物はノートルダム大聖堂

・昭和43年8月2日(金)晴れ(語り合いとアラビアコーヒー)
 9時~10時頃まで寝ていた。私と鈴木が起きたらマサオは、温かいコーヒーを煎れてくれた。我々3人は、コーヒーを飲みながら色々な事を語り合った。

 その後、昼食用の買物に3人で出掛けた。近所の商店は結構買い物客で賑わっていた。マサオは我々の為に魚を買い、それを料理してくれた。昼食はフランスパン、トマトとレタスの野菜サラダ、魚料理、そしてワインであった。久し振りに豪華な食事で、魚料理は味付けが良く、非常に旨かった。 
「我々に食事代を出させて下さい」と言ってもマサオは、頑として聞き入れなかった。彼の生活は、ゆとりがあるように見えなかった。むしろ最低な生活状態にも拘らず、私と鈴木を持て成してくれたのだ。そんな彼の気持を心から有難く思った。
 
 午後も3人で再び色々な事を話し続けた。マサオの周りに日本人が居ないのか、日本語で話をするのが久し振りの様であったらしく、マサオも日本語で話す会話を楽しんでいた。又、『会社を辞め、旅行に出掛けて来るYoshiとはどんな人だろう』と彼も私と会う事を楽しみにしていた。
 
 そう、天井から垂れ下がっている赤い布切れは、曰くがあった。今年5月の〝プラハの春〟(市民が政治経済改革を求めた大衆運動)の時、パリでもこの大衆運動を支援の為、学生運動が盛りあがったとの事でした。マサオもそのデモに参加し、赤い布切れはその時に使用した赤旗の切れた布片の一部との事でした。余談ですが、このプラハの春に反対したソ連とワルシャワ条約機構軍が8月21日深夜、突如チェコ・スロヴァキアに軍事侵攻し、この改革を弾圧させた
 
 夜の8時過ぎ頃、マサオが「アラビアコーヒーを飲みに行こう」と言うので、近くのアラブ風喫茶店へ行った。狭い地下階段を降りて店内へ入った。そこは薄暗く、アラビア風の音楽が流れ、店内の装飾もアラビア風であった。一瞬、私は違和感を伴ったアラビアの世界に迷い込んでしまった、そんな感じがした。
彼はちょくちょくこの店に来ている感じであった。先客のヒッピー風の男性8人が既に座っていた。マサオが、「ボンスワー」と言って彼等とフランス語で何か話をしていた。そうするとヒッピー風のその人達は私と鈴木に握手を求め、友達の様に迎えてくれた。1つの発見だが、マサオは彼等に「マサオ、マサオ」と呼ばれ、皆に好かれていた。
出されたアラビアコーヒーは、率直に言って旨くなかった。濃くのあるストレートの味と言うか、苦味があった。半分飲むと粒がたくさん入っていた。それを更に飲むと、口の中がザラザラして来た。これは何であろう、コーヒー豆の粕か。私は喫茶店のクリームと砂糖入りのコーヒー以外、飲んだ事がなかったので初めての体験で、飲み方を知らなかったのであった。
 
 その後、我々3人は再び部屋に戻って今度は、隣部屋のベネズエラ人を誘ってカフェ店へ行った。4人で一時の夏の夜のパリを過ごした。


パリの旅~私が見た事、感じた事その8、メトロの話

2021-08-02 09:03:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
8、メトロの話

 パリの地下鉄(メトロ)について感じた事を書いておく事にした。
言葉が分らなくても、パリのメトロは本当に利用し易かった。
ドアは手動式であるから、乗る時、降りる時は自分で開ける仕組みになっていた。開けたドアは出発する前に自働的に閉まるので、自分で閉める必要はなかった。ドアを開ける場合、チョッと重いので、かよわい女性が乗降する時に手を貸してあげるのが、ここでのエチケットであった。美しい女性に、「メルシー」と言われると良い気分がした。
 
 行き先、又は乗換駅が分らない場合は、各駅に電光行き先表示板の駅案内があった。ボタンを押せば経路、乗換駅が点滅され、不案内旅客にはとても便利だ、と感心した。
駅構内は、電車を乗る通路(乗車通路)と駅を出る通路(出口通路)が別個に分かれていて、通路で乗る人と降りる人がぶつかり合う事はなかった。
電車の発車前は、乗車通路の最先端がアームによって遮断され、駆け込み乗車が出来ないように安全策が取られていた。これは、非常に良い方法であった。 
 
 電車の車輪はゴム製タイヤが使用され、地下鉄特有の騒音防止の効果があった。しかもゴム製タイヤは高加速・高減速が得られ、乗り心地もとても良かった。車内も、明るい感じがした。
車両によって2等車と1等車に分かれていて、2等切符で1等車に乗る事は出来ない。検札が度々あったし又、不正やトラブルになる様な事は、パリの市民はしなかった。
 
 運賃は、全線均一(0.37フラン=約26円)であった。切符をその都度買うよりも〝アン・キャルネ〟(2等回数乗車券)を買った方がより安く便利であった。改札口で切符にパンチを入れて貰うのは日本と同じであるが、出口で切符を係員へ渡す必要がなかった。夜の0時を過ぎ、終電近くになると駅員は、居なくなる。と言う事は、切符を買わずに、無賃で乗ろうと思えば乗れた。
 
 駅員は殆んどおばさんが多く、若い男性駅員はいなかった。パリの地下鉄だけではなく、モスクワやロンドンでも殆んど運転士を含め、女性が鉄道の仕事に従事していた。鉄道従事者は女性向きの仕事なのか、労働力が足りないので女性が補っているのか、給料が低すぎるのか、モスクワは男性の労働力不足を補っていると推測された。
 
 何と言っても日本と大きく異なるのは、乗客(バスの乗客も同じ)の方から切符を買った時、或は切符を切って貰った時など、「メルシー」とお礼(感謝)の言葉を発していた事であった。感謝を表す『ありがとう』の言葉は、イギリス、ドイツ、オーストリアを始め、広くヨーロッパ全般に聞かれた。
私の見た或いは経験の範囲で、切符を発売した時、パンチを入れた時、勿論、親切な案内をした時も、『ありがとう』の言葉はなかった。日本では、『ありがとう』と言う言葉は死語になってしまったのか。我々も彼等を見習うべきだと感じたのであった。
しかし自分を振り返ってその様な時、「有難う」とお礼を言った事があるであろうか(余りないかなぁ)。日本では『ありがとう』の言葉は言い難いのか、お礼を言っても、『どうも』であった。果たしてお礼(感謝)の気持を『どうも』だけで良いのか、帰国したら皆に聞きたかった。
 
 パリは、伝統と豊かな文化が満ち溢れ、それを支えに誇らしげに暮らしているフランス人、その首都パリは何箇月滞在しても飽きない都であろう、と感じた。 

パリの旅~私が見た事、感じた事その7、食べ物の話

2021-08-02 08:10:29 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
7、食べ物の話

 フランスは、食道楽の国と言われているが、下町の魚屋、八百屋等をのぞいて見ると、私が訪れたいずれの国よりもパリのお店は、商品の種類やその量が豊富であった。    

 私は何度かカフェテリアに入った事があったが、その店の料理が意外と安く、しかも大変美味しかった。料理を自分の目で確かめられ、自分の好きなだけ取る事が出来た。ある時など、メトロに乗ってわざわざ食べに行った事もあった。一流レストランで本物のフランス料理が食べられれば良かったが、それは私にとって到底出来ない話であった。
 
 フランスはスペインやイタリアと同じくワインが安く、種類も豊富にあった。安いワインは1フラン(70円)からあった。私は2フランの白ワインを水替わりに飲みなが、パリの観光、散策を楽しんだ。

パリの旅~私が見た事、感じた事その6、ファッションの話

2021-08-02 06:32:00 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
6、ファッションの話
 
 パリは、ファションの街であるが、フランス風のトップ・モードの女性は、意外と見掛けなかった。どちらかと言えば東京の方がファション的かなぁ、と言う一面もあった。

 しかしそこはフランス女性で田舎臭くなく、何処となくシックで洗練された感じがした。とは言っても、夏のパリは観光客が多く、パリジェンヌはバカンスに出掛け、私が見掛けた女性の多くは、他の国から来た観光客だったかもしれなかった。