△セーヌ川に掛かる橋にて~後ろの建物はノートルダム大聖堂
・昭和43年8月2日(金)晴れ(語り合いとアラビアコーヒー)
9時~10時頃まで寝ていた。私と鈴木が起きたらマサオは、温かいコーヒーを煎れてくれた。我々3人は、コーヒーを飲みながら色々な事を語り合った。
その後、昼食用の買物に3人で出掛けた。近所の商店は結構買い物客で賑わっていた。マサオは我々の為に魚を買い、それを料理してくれた。昼食はフランスパン、トマトとレタスの野菜サラダ、魚料理、そしてワインであった。久し振りに豪華な食事で、魚料理は味付けが良く、非常に旨かった。
「我々に食事代を出させて下さい」と言ってもマサオは、頑として聞き入れなかった。彼の生活は、ゆとりがあるように見えなかった。むしろ最低な生活状態にも拘らず、私と鈴木を持て成してくれたのだ。そんな彼の気持を心から有難く思った。
午後も3人で再び色々な事を話し続けた。マサオの周りに日本人が居ないのか、日本語で話をするのが久し振りの様であったらしく、マサオも日本語で話す会話を楽しんでいた。又、『会社を辞め、旅行に出掛けて来るYoshiとはどんな人だろう』と彼も私と会う事を楽しみにしていた。
そう、天井から垂れ下がっている赤い布切れは、曰くがあった。今年5月の〝プラハの春〟(市民が政治経済改革を求めた大衆運動)の時、パリでもこの大衆運動を支援の為、学生運動が盛りあがったとの事でした。マサオもそのデモに参加し、赤い布切れはその時に使用した赤旗の切れた布片の一部との事でした。余談ですが、このプラハの春に反対したソ連とワルシャワ条約機構軍が8月21日深夜、突如チェコ・スロヴァキアに軍事侵攻し、この改革を弾圧させた
夜の8時過ぎ頃、マサオが「アラビアコーヒーを飲みに行こう」と言うので、近くのアラブ風喫茶店へ行った。狭い地下階段を降りて店内へ入った。そこは薄暗く、アラビア風の音楽が流れ、店内の装飾もアラビア風であった。一瞬、私は違和感を伴ったアラビアの世界に迷い込んでしまった、そんな感じがした。
彼はちょくちょくこの店に来ている感じであった。先客のヒッピー風の男性8人が既に座っていた。マサオが、「ボンスワー」と言って彼等とフランス語で何か話をしていた。そうするとヒッピー風のその人達は私と鈴木に握手を求め、友達の様に迎えてくれた。1つの発見だが、マサオは彼等に「マサオ、マサオ」と呼ばれ、皆に好かれていた。
出されたアラビアコーヒーは、率直に言って旨くなかった。濃くのあるストレートの味と言うか、苦味があった。半分飲むと粒がたくさん入っていた。それを更に飲むと、口の中がザラザラして来た。これは何であろう、コーヒー豆の粕か。私は喫茶店のクリームと砂糖入りのコーヒー以外、飲んだ事がなかったので初めての体験で、飲み方を知らなかったのであった。
その後、我々3人は再び部屋に戻って今度は、隣部屋のベネズエラ人を誘ってカフェ店へ行った。4人で一時の夏の夜のパリを過ごした。