YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

シーラの実家にて~シーラの実家へ

2021-08-30 17:03:13 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△シーラの実家(コロブレン)の絵になる様な牧歌的風景~By M.Yoshida

・昭和43年8月30日(金)曇り(シーラの実家へ)
 今日は、ウェールズのシーラの実家へ行く日であった。「イギリスへ行った際、ウェールズに是非2週間程滞在したい」と前もって彼女の父に手紙を書いたら、歓迎するとの返事があった。彼女が生まれ育った所、ウェールズに大変興味を持って何日か共に暮らして、ウェールズの生活を肌で感じてみたかったのでした。そんな訳で今日、私はわくわくした、そしてチョッピリ不安な気持ちもあった。Pardington(国鉄パディントン駅)に午後2時30分、彼女と待ち合わせをした。
 今朝も食事前、胃が痛かった。胃の具合が治まりユースを去ろうとしたら、ペアレントから芝刈りの仕事を頼まれたが、15分で終わった。ユース利用者は清掃等を頼まれる事があった。   
 朝食を例のカフェ店で取った。ここのお店を何度か利用したが、これが最後になった。
それからパディントン駅のロッカーに荷物を預けて、彼女のお父さんの土産として、日本酒を持って行ってやろうと思った。酒屋を2軒ばかり捜して聞いたが、日本酒は置いてないとの事で、買うのを諦めた。彼女のお父さんは、Ivor Morgan(アイボーモーガン)と言い、彼女はお父さんの事を、「ダディ(お父ちゃん)」と言っているので以後、私も「ダディ」と言う事にした。
 2時30分になるまで食事(7シリング約350円)をしたり、リーダーダイジェストの本を買ったりして時間が来るのを待った。お陰様でこの頃になると、お昼もしっかり食べられるようになって来た。彼女は2時20分に遣って来て、既に私の分の乗車券も買っておいてくれた。Neath(ニース)までの2等往復乗車券は、5ポンド(約5,000円)であった。2時50分、ジーゼル機関車が牽引する列車に乗車した
 パディントン駅を発車して間もなく、イギリス特有の良く手入れされた芝生、青々とした牧草が広がる田園風景が続いた。車内は日本の2等車と同じ4ボックスシートで、労働者風その他の人達で満員であった。労働者風の男達は既にウィスキーを飲み始めて、陽気に騒ぎ始めた。東洋人は私1人で、周囲の目がチラチラと私に向けられているように感じられ、リラックス出来なかった。それはあたかも日本の田舎で外人を見掛けると、我々は好奇心でつい外人(東洋人以外)に目を注いでしまう、それと同じ様な感じであった。彼女も私と一緒なので、それを感じていた。ヨーロッパではこんな感じを受けなかったのに、やはりイギリスは島国なのか、特にウェールズ地方の田舎へ行く人達にとって、東洋人は珍しい様であった。
 牽引は途中から蒸気機関車に変わった。叉、地方に来たら信号機は色灯式から腕木式に代わり、閉塞方式はタブレット(通票)閉塞式に変わった。日本もそうであるが、鉄道発祥の地のイギリスでも、まだあちこちで汽車が走っていた。これは何もイギリスのみならず、ヨーロッパ(イギリスもヨーロッパであるが、イギリス人は自国以外の欧州をこの様に言っていた)は、まだ汽車が主流を占めている線区もあった。概してヨーロッパは道路や自動車が先に発達して、鉄道の近代化が遅れていた。


 △南ウェールズを走る蒸気機関車牽引の列車(PFN)

 シャイラの実家Colbren(コルブレン)は南ウェールズのニース(ウェールズの南部に位置する第2位の都市スウォンジーに継いで第3位の都市(?)。第1位は首都のカージフ)からが近い様であった。列車はニース駅に5時頃に到着した。駅に跨線橋がなく、線路を横断して改札口を出た。ニースの駅前は商店や住宅が建ち並んでいる光景でなく、静かで閑散としていた。まるで田舎の駅前の光景であった。
 彼女は我々が来るのを前もってダディに知らせてあったが、25分位早かったのか、まだ誰も迎えに来ていなかった。私は彼女と共に駅前のカフェ店でコーヒーを飲みながら迎えに来るのを待った。
コーヒーをゆっくり飲み終わって店を出ると、間もなく迎えの車が来た。彼女からダディ、弟のケネス、そして感じの良い叔父さんを紹介された。それから私は彼等と共に彼女の家へ向かった。
 この辺りの景色は、低い山々(緩やかな丘陵)が幾重にも連なった、なだらかな草山であった。又、南ウールズは有数の炭鉱地帯であったので、人工で出来た〝ぼた山〟(石炭の屑の山々)や廃墟化した炭鉱労働者の細長い家々(レンガ造りのテラスハウス)が見られ、それは活気のない寂しい感じがした。いずれにしても、炭鉱地帯の独特の光景が印象的であった。学生時代に社会科の勉強でウェールズと言えば工業地帯、特に石炭の産出で栄えていると学んだ事があったが、燃料が石油にとって変わり、時代の流れをこんな所で感じさせられるとは、無常であった。
 彼女のダディは、炭鉱労働者であった。しかし私が高校3年の時、「今日は悲しい事を書かなくてはなりません。実は、私の父はまだ働き盛りの歳にも拘らず、炭鉱の仕事を辞めざるを得なくなり、私達の生活も苦しくなります」と彼女は、悲しそうに書いて来た事があった。時代の流れの省力化、合理化、或は閉山の為なのか、その辺りの理由は書いてありませんでした。そして私も悲しかった事を覚えている。その後ダディは再び職についたが現在、定年になって年金暮らしである、と私は彼女から聞いていた。そんな理由で彼女の家は、決して豊かでないのを承知しており、私のウェールズへの物見遊山、興味本位で彼女の家に訪問する事に、『迷惑を掛けて悪いなぁ』と言う気持が率直に言ってあった。
 30分程で彼女の実家・コロブレンに着いた。その1つのBrynawelonと言う地区、戸数30~40戸位、周りの景色は小高い山々に囲まれた丘陵や牧草地帯、静かで絵になる様な美しい牧歌的な所でした。しかも家々は集中しておらず、あちらに2~3件こちらに4~5件と点在していて、皆立派なたたずまいをしていた。彼女の実家もそんな家の一軒であり、セメント作りのSemi Detatched House(セミディタッチドハウス~二階建て二件長屋)の右半分、両親が共働きして買ったと聞きました。この様なタイプの家はロンドンを始めイギリスではポピュラーであった。
 家に入り(勿論、靴は履いたまま)、シーラのお母さんも愛想良く私を迎えてくれた。お母さんの名前はSal(サル)と言って、如何にもウェールズ的な名前で、彼女は「マミ(お母ちゃん)」と言っているので、以後私も「マミ」と言う事にした。マミは背が低く小太りタイプで、日本で普段その辺で見掛ける様なおばさんタイプであった。ダディはイギリス人としては背が低く(私より背が低い)、顔はやや赤め、目はブルー、そして髪の毛は茶色をしていた。弟のケネスは彼女と同じくダディやマミとは似ず、とても美男子であった。背は私と同じ位で感じの良い子であった。両親と同じで髪の毛は茶色、目はブルー、中学3年の15歳であると言っていた。来年、彼は進学しないで職につく予定であると言っていた。
お土産としてマミには日本の伝統的な扇子とハンカチを、ダディにはライターを、弟には目覚まし時計を贈りました。彼等は喜んで受け取ってくれました。
 何はともあれ、私は終にシーラの家に来たのだ。日本を離れ、ヨーロッパの一番西の最果て、本当に遠くに来たものだと思った。そしてモーガン家のリビングには、夏にも拘らず暖炉に石炭が燃えていた。
私が家に着いてから、そうこうしている内に(午後6時半頃)、夕食の用意(後で分かったのだが、実は夕食ではなく、遅いハイティーであった)が出来た。
そのメニューは各自のお皿の上にベーコンエッグ、テーブルの中央にどかっと蒸かした皮付きのままのジャガイモ、切ってないそのままのキュウリ、1口で食べられる真っ赤なトマト(大きいビー玉サイズで一口トマトは日本にまだなく、初めて見た)が器に盛られ、その他に大きいケーキ、パン、チーズ、バター、そして紅茶がテーブルの上に並べられた。
ジャガイモやキュウリはまるごとテーブルの中央に出されるので、各自が自分なりの食べ方によって、それらを切って食べるのだ。勿論、トマトは小さいのでそのままで食べられるが、小さ過ぎて私には何か物足りなかった。日本人はキュウリをキュウリのお深厚、キュウリもみ、或いはスライスしてサラダ料理として出すが、モーガン家では違っていた。『成る程、この様な食べ方があるのだ』と感心する反面、何か手料理と言った感じがしなかった。これも日本との食文化の違いであった。
家族の食べ方を見ると、チーズの食べ方が豪快であった。パンにバターを塗って、チーズをパンの厚さぐらいに切って、パンの上に乗せて食べる。食事の度、否、一日一回でもバターとこんなに厚いチーズを食べたら脂肪分の取り過ぎと思うが、成る程、ウェールズ的食事を感じたのであった。
彼女が話してくれたのだが、ケーキはマミのお得意とする所で今日、私の歓迎の意味を込めて作ったとの事でした。以後、マミはケーキを何回か作ってくれました。そしてケーキの中のイチゴはダディとケネスが山へ取りに行った野イチゴでした。私はこのケーキが大変美味しく、好きだった。
 紅茶もとても旨かった。我々日本人が飲む紅茶と煎れ方が違っていた。日本の場合は、ティバッグで煎れた紅茶の中にレモンの輪切りか、クリープを入れて飲むのであるが、モーガン家の家族(多くのイギリス人も同じであった)は、紅茶の中に牛乳を多めに入れて飲んでいた(人によって牛乳の方が多い人がいた)。これが何とも言えない程、美味しかった。以後、私はいつも食事の後に2杯か3杯紅茶を飲んでいた。 
 食事の後、暫らくしてからダディ、マミ、そしてシーラの3人は、クラブへ行くと言うのだ。私は「クラブ」と言われ、頭から金の掛かる『酒場』と思い込み、余り手持金を使いたくないし、疲れているし、早めに休みたかったので行くのを断り、ケネスと一緒に家に残った。
後で分ったのであるが、日本の様な女性付きのクラブではなく、『この周辺地域の社交場』であったのです。
 言葉の件で、記憶に留めておかなければならない事があった。我々が駅からコロブレンへ向こう自動車の中で、ダディや彼女の叔父さんから色々と話し掛けられたが、何を言っているのか、私は全く理解出来なかった。聞き返しても分らず、何をどの様に返答して良いのか分らず、彼等と全く会話が出来なかった。私の代わりに、彼女が答えていた。彼等の話す英語はウェールズ訛りの英語で、彼女の話す英語と全く違った英語であった。彼等の言っている事は、簡単な言葉でない限り、私には理解出来なかった。
私の様な関東人にとって、同じ日本人でも津軽人や熊本人、鹿児島人の訛りのある言葉で話し掛けられたら、全く何言っているのか分らないのと同じで、ダディ、マミや叔父さんの言葉はそれと同じ状態であったのだ。それに加えて、私はヒアリングやスピーキングが弱いので、余計に分らなかった。
 そんな訳で、ダディやマミが言っている事が分らない時は、9月2日に彼女が仕事でロンドンへ帰る日迄、彼女が通訳的な存在でした。ケネスは学校教育やテレビの影響等、イギリスの標準的な英語を身に付けているので、彼女が居なくなってから、ケネスが両親と私の間の通訳者となったのです。 
 ウェールズに来るまで彼女の英語と両親の英語がこんなにも違うとは思ってもいなかった。たかがロンドンから250km位の距離で、同じイギリスなのに言葉がこんなにも変わるものなのか、不思議でならなかった。
彼女の話しによると、現在ウェールズの人々は、その時の感覚、状況で英語を話したり、ウェールズ語を話したりするそうです。私が「どちらが多く話されているのか」と尋ねたら、「フィフティーフィフティーであるが、最近英語が多くなって来た」と言っていた。        
イングランド(英国)とウェールズは、民族が異なっているし昔、国もお互い独立国家であったのだ。幾多の戦争でウェールズはイングランドに併合されたのである。しかし、現在でもウェールズは自治権を持っており、その首都はCardiff(カージフ)である。
 書く事がたくさんあって又、脇道にそれるが、皆がクラブへ行った後、私はケネスと残って少し話をした。学校の事(イギリスでは中学程度であるとO-level、高校だとA-level、大学だとD-levelと言う学歴だそうだ)、入社試験の事(イギリスでも会社に入る時、入社試験がある)、就職事情の事(現在、良い就職口は困難だとか)、或いは石炭産業の事(ウェールズの炭鉱は下火になった)等々について彼と色々話をした。しかし、彼の話から余り景気の良い話はなかった。
 ケネスは私が1人で海外旅行をしているので、私の事を「度胸がある」と感心していた。私が「大人になったら日本に来ないか」と言ったら、「そんな度胸はないよ」と彼。彼1人ではまだ何も行動出来ない、そんな田舎の純粋な中学生であった。でもケネスは、本当に美男子で良い子であった。
 いずれにしても、ウェールズの田舎でこれから就職、或は自分で何か商売をするのも大変なように感じた。彼も都会へ職を求めて、この地を離れるのであろうか。
私は疲れたので、与えられた2階の部屋で先に休んだ。遠くの滝の音がよく聞こえた。