YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

マドリードの旅~相棒との旅の相違、そしてリターとの出逢い

2021-08-05 14:30:02 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ユース近くの公園でスペインの美女達に囲まれて

・昭和43年8月5日(月)晴れ(相棒との旅の相違、そしてリターとの出逢い)
 早めに起きてバルセロナ行きの座席予約の為、中央駅へ行った。鉄砲を持った兵隊や警官が駅構内にうようよいた。我々はあっちへ行ったり、こっちへ来たりして時刻表を捜し求めた。言葉が分らず、時刻表が何処にあるのか分らなかった。又あちこちと駅構内を歩き回った。全く嫌になってしまった。『どこそこ行きは何番から何時に出発』と言う発車時刻表が見付らなかった。
8時40分頃駅に来て、12時00分のBarcelona(バルセロナ)行きがあるのが分るまで、かなりの時間を費やしてしまった。それでは12時のバルセロナ行きに乗ろうとして出札窓口へ行ったら、全部予約が一杯で駄目だった。
 
 他の列車の予約を取る為、また列に並ばなければならなかった。窓口が5つあるが、各窓口は長蛇の列であった。日差しが強く、屋根のない所に並んでいるので、非常に暑かった。 
そんな我々を見越してか、2つのバケツを天秤棒で担いで、裸足で汚らしいぼろ服を着た貧しそうな小学1・2年生位の少女が、「お水、お水、お水はいかかですか。コップ一杯10センチモア」(私には少女の言っている言葉が分らないが、その様に言っている感じがした)と何度も言って、列の我々に悲しそうな目で、必死になって売っていた。しかしかわいそうだが、誰も買う人はいなかった。私は生水には充分注意していて、他国の生水を飲まないようにしていた。それにしてもこんな小さい女の子に重たい水を運ばせて売らせている、スペインのこの現状の方が悲しかった。
 
 なかなか列が動かないので窓口へ見に行ったら、出札係(予約担当)は他の係員と話しながらノンビリやっていた。日本では考えられない程の超スローペースの仕事振りであった。2日前の夜、列車の中で出逢ったスペイン人が、「スペイン人は働かない」と言っていた事が頭によぎった。
 
 1時間30分も並んでやっと午後8時45分のMarseille(マルセイユ)行きの列車の予約が取れたのがお昼頃であった。我々は駅に着いてから予約を取るだけで3時間半も費やした。こんなに時間が掛かったのは初めてであり、そして最後になった。
 
 私の旅はアバウトで計画性がなく、行き当たりばったりであるが、私はこれで良いと思っていた。しかし私の行先、列車の選択方法、予約の仕方等が私の旅の相棒の鈴木と考え方が合わず、彼は私に文句を言って来たのであった。
彼は、「日本などでも長距離列車は、通常夜に出発するので朝、駅に来ても駄目なのだ。Yoshiは鉄道員であったのに、そんな事も知らなかったのか」と言ったのだ。
「そんな事を言っても、長距離列車に乗った事はないし、国鉄職員でないので私は知らないよ。それに私が今まで色んな事を段取りして来たではないか」と私は言った。その含みとして、『英語を知らない君の為にも便宜を計って来たではないか。それだったら君が段取りすれば良いではないか』と言いたかったのであるが、全部言っては彼だって頭に来ると思い、私は言わなかった。
しかし、一緒に旅をしている友から言いたい事、人を傷つける様な事を言われてしまっては、共に旅は出来ないな、と思った。
 
 根本的に人は、それぞれ違った旅の仕方があるのだ。私と鈴木とでは、行きたい、見たい、宿泊したい所はお互い異なるし又、互いの食事の取り方も違った。外国への持ち出し額は最高500ドル(実際430ドル。70ドル分はソ連の旅行でドル建てであった)で同じあるが、彼は2ヶ月間有効のユーレイル・パスを持ち、ヨーロッパを2ヶ月旅行したら帰国する予定だった。私のパスは1ヶ月間有効であるが、最低でも半年間はこちらに滞在したかった。
 
 当然、旅行者は持ち出し金額、旅行日数、趣味趣向でその人の旅の仕方も変わってくる。これは、当然の事であった。であるから異国の地、しかも言葉がお互いに分らないので、小異を残してお互い助け合って旅をするのが基本であると思った。それが出来なければ、別れて旅をするしかないな、と私は感じて来た。
「鈴木さん、それでは別れて貴方は貴方の旅をして下さい。私は私の旅をしますから」と言った。彼は黙っていた。
 我々は、午後8時45分のマルセイユ行き列車に乗った。コンパートメントには誰も居らず、私と鈴木とは向かい合って別々に座った。今日の座席予約の件で、別々に別れて旅をする方向に我々はなってしまった。だからと言って今、喧嘩をしている訳ではなかった。
 
 暫らくしたら、カナダ人の女性2人(カナダ大学の学生)が入って来て、相棒の方の席に座った。それから直にアメリカ女性1人が私の方の席に座った。コンパートメントルームは、5人になった。
 
 アメリカ女性の名前は、Miss. Rita(私は「リター」と呼んでいた)と言って、どちらかと言えば我々日本人がイメージしているアメリカ女性よりやや背が低かった。でも金髪が良く似合う優しい感じの女性であった。こんな女性が私の隣に座ってくれてラッキーであった。
 
 私とリターは直ぐ、友達の様に親しくなった。リターは私の下手な英語に付き合ってくれて、しかも、陽気に話をしてくれて、とても楽しかった。
彼女と日本の100円オリンピック記念銀貨(お土産用に何枚か持って来ていた)と1ドル紙幣を交換したり、日本の絵葉書とサンフランシスコの絵葉書とを交換したりした。カナダ女性にも日本の絵葉書を1枚ずつ渡した。
リターと話をしていると、彼女は私の話に突然、驚いたように、「Sock it to me Baby!」と言った。私は全くその意味が分らなかったので、「What does it mean?」と言ってその意味を教えて貰った。それは、感情を表す1つの表現であった。意味は、『It means―An expression of action like in dancing or sports. In America we say to me one who has had his feeling hurt, because he was laughed at! He does not laugh at you, rather we laugh with you』(驚いた時のダジャレの表現であった)。
彼女は、サンフランシスコに住んでいる大学生で、夏休みを利用してヨーロッパを列車で旅をしているとの事であった。
 
 私とリターは、もう少し話をしたかったが、夜も遅くなってきたので寝る事になった。寝る位置として、鈴木側の席は、彼とカナダ女性2人で彼が横になった為、女性2人は座ったまま寝る事になった。私の方は座席をリターと半々に、彼女の足を抱く様な状態で横になって寝る事が出来た。