YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

ロンドンの旅~ペンフレンド・シーラの話

2021-08-22 09:03:38 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△1961年16歳のペンフレンドのSheila Morganとkenneth~彼女の自宅にて。          
       
                                 ロンドンの旅
*ペンフレンド・シーラの話
 (注)この話は53年前の実話です。
 
 第1章の項で述べたが、私が高校2年の時に彼女と文通を始めた。彼女から最初に来た手紙は、1961年(昭和36年)9月2日付でした。彼女(Sheila Morgan~シーラモーガン)はウェールズのスウォンジーやニースから近いColobren(コロブレン)に両親と弟の4人で住んでいました。彼女は当時15歳、私は16歳でした。送ってくれた彼女の写真は美しかった。「ダークヘアーにグリーンの目をしている」と自身言ってました。
 彼女の父は文通を始めた最初の頃、炭鉱労働者であったが、閉山になり1968年現在は無職の年金暮らし、名はIvor(アイボー)でした。そして母の名はSal(サル)、そして弟はKenneth(ケネス)と言う名前でした。7~8歳の時にシーラと一緒に撮った弟は、かわいい感じであった。
 以後7年間、我々はお互いの事、家の事、学校の事、そして国や風俗習慣等、色々な事について手紙のやり取りをして来ました。私が高校を卒業し、それから1年後、彼女もロンドンでOLとして仕事をするようになってからも文通は続きました。
 文通を始めて以来、彼女だけが私の唯一の異性の友達であった。その文通を続けて行く過程で、「彼女に一目会いたい」と思う気持が、日増しに強くなって来ました。そして文通を始めてから7年、やっと会える機会が来て、既に私は23歳、彼女は22歳になってました。歳月経つにつれて彼女からの手紙は、70通を超える数になっていました。それと私の「彼女に一目会いたい」と言う事は、「外国へ行って見たい」とある意味に於いて、同義語であったのでした。
私が、「今年の夏の8月頃、ロンドンへシーラに会いに行く」と手紙を出しました。彼女の返事は、大変驚いた様子であったが、「私もYoshiに会いたい」との事でした。数日後、彼女のお父さんからも、「ウェールズに来たら何日でも泊まって良い」旨の手紙が届きました。
 その様な訳であるから、私が7年間想い続けた事が明後日、実現するのです。


ロンドンの旅~ペンフレンド・シーラの話

2021-08-22 09:03:38 | 「YOSHIの果てしない旅」 第5章 イギリス
△1961年15歳のペンフレンドのSheila Morganと5歳か6歳のkenneth~彼女の自宅にて。          
        第5章 イギリスの旅
               ロンドンの旅

*ペンフレンド・シーラの話
 (注)この話は53年前の実話です。
 
 第1章の項で述べたが、私が高校2年の時に彼女と文通を始めた。彼女から最初に来た手紙は、1961年(昭和36年)9月2日付でした。彼女(Sheila Morgan~シーラモーガン)はウェールズのスウォンジーやニースから近いColobren(コロブレン)に両親と弟の4人で住んでいました。彼女は当時15歳、私は16歳でした。送ってくれた彼女の写真は美しかった。「ダークヘアーにグリーンの目をしている」と自身言ってました。
 彼女の父は文通を始めた最初の頃、炭鉱労働者であったが、閉山になり1968年現在は無職の年金暮らし、名はIvor(アイボー)でした。そして母の名はSal(サル)、そして弟はKenneth(ケネス)と言う名前でした。5~6歳の時にシーラと一緒に撮った弟は、かわいい感じであった。
 以後7年間、我々はお互いの事、家の事、学校の事、そして国や風俗習慣等、色々な事について手紙のやり取りをして来ました。私が高校を卒業し、それから1年後、彼女もロンドンでOLとして仕事をするようになってからも文通は続きました。
 文通を始めて以来、彼女だけが私の唯一の異性の友達であった。その文通を続けて行く過程で、「彼女に一目会いたい」と思う気持が、日増しに強くなって来ました。そして文通を始めてから7年、やっと会える機会が来て、既に私は23歳、彼女は22歳になってました。歳月経つにつれて彼女からの手紙は、70通を超える数になっていました。それと私の「彼女に一目会いたい」と言う事は、「外国へ行って見たい」とある意味に於いて、同義語であったのでした。
私が、「今年の夏の8月頃、ロンドンへシーラに会いに行く」と手紙を出しました。彼女の返事は、大変驚いた様子であったが、「私もYoshiに会いたい」との事でした。数日後、彼女のお父さんからも、「ウェールズに来たら何日でも泊まって良い」旨の手紙が届きました。
 その様な訳であるから、私が7年間想い続けた事が明後日、実現するのです。


二度目のパリにて~友達への西欧を旅して1ヶ月間、その取留めのない感想の手紙の話

2021-08-20 09:49:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
・昭和43年8月20日(火)晴れ(シーラへ会いに行く旨の手紙を出す)  ~今日はマサオの部屋でゆっくり休んでいた。

・昭和43年8月21日(水)晴れ(パリ観光して過ごす)

・昭和43年8月22日(木)晴れ(パリ観光して過ごす)

*友達への西欧を旅して1ヶ月間、その取留めのない感想の手紙の話

 今、私はパリに戻って来ました。共産圏のソ連を出て、自由に旅が出来るようになって1ヶ月が経ちました。私はパリに来てフレンドリーなマサオに会って本当に彼にお世話になりましてその後、西欧列車の旅をしました。その間に2度、腹痛に悩み苦しみましたが、無事に再びパリに戻って来られて、本当に良かった思います。
 この列車の旅で、私が使った金額は100ドルでした。1日平均3.3ドル、勿論ビールやタバコも買いました。観光はなるべく歩いて行き、市電やバスはあまり使いませんでした。それでも1日約千円で西欧一回り旅をする事が出来ました。倹約旅行するが私の持論ですので、1度も一流二流ホテルやタクシーを使いませんでした。これからも又、使うつもりはありません。今後とも、これを私の旅の信条として、貫いて行きたいと思います。歩く事によって街の様子も分かったし、その街を肌で感じる事も出来ました。大体、ヨーロッパの都市・町は狭いので、パリを除けば、殆んど歩いて観光が出来ました。
先進ヨーロッパ諸国は、日本より物価が高かった。特に、北欧では日本の5~8倍(酒、タバコは10倍)もしたのに、私が如何して「1日3.3ドル」で旅行が出来たか、もう少し話をしたいと思います。先ず、泊まる所は基本的にユース、さもなければ安いホテルかペンションでした。北欧以外、探せば700円以下で泊まれるホテルがありました。又、ユーレイルパスを持っていたので夜発って、目的地に朝到着と言ったケースが何回かあったので、結果的に宿泊費用が節約出来ました。
 次に食事を切り詰めました。例えばストアでパンとその他を買って済ませるとか、或は立ち食い専用のスタンドでホットドッグの様な、そんな簡単な軽食で済ませた事もありました。しかし、ビールは割安感があり、マドリード、ローマ、ウィーン、ミューヘンでは『飲みたいなぁ』と思った時、結構飲んでいました。 
話は変わりますが、ヨーロッパの何処の国へ行っても、ラジオ、カメラ、自動車、オートバイ、おもちゃ等の日本製品が見る事が出来ました。ドイツのカメラも優秀であるが、それと対抗してメイドインジャパンのカメラが陳列されているのを見ると、何か日本を誇りに感じさせる気持になりました。日本にいた時、日本製品が広く世界に輸出されている事は聞いていたが、私のその認識は薄かったが、外へ出て見るとその事が肌で感じさせられました。
 日本の発展の背景には、戦後の廃墟から立ち上がる為に又、「欧米に追い付け追い越せ、働け、働け」と日本人は喰うのも儘ならずの貧乏が故に働いて来ました。そして日本人の「労働は美徳」の教え等が一般的傾向でした。私はアムステルダム発のTEE列車内で知り会ったオランダ人が言っていた事が思い出されます。それは、「日本経済の発展振りは恐ろしい。後何年かでヨーロッパ経済を席捲しまうのではないか」と。
 欧米人から恐れられる程に経済発展して来たのに、その〝パイ〟(利益)は、我々の賃金にまだ還元・見返りがなく、労働者の平均月収が3万円前後で生活が苦しいのが現状であります。又、賃金・労働条件とそのパイを比較して、「日本はアンフェアーである」と言う欧州人の意見もありました。日本の労働者はこの辺で一旦立ち止まり、よく考え、心のゆとりが持てる為に長期休暇が取れる、そんな生活をエンジョイ出来るように取り組むべきではなかろうか。労働者の汗と苦労の結晶で成し得ている経済発展とその利益を労働者の生活の向上・エンジョイが出来るように、労働者はもっと要求する権利を有している、と私は思うのです。過ってある職場のあるボスが、この様に言って職場を去って行った事が思い出されます。それは、「皆は会社の枠内で行動しなければいけない。〝外〟(他の会社や欧米の状況)を見ては駄目だ」と。しかし先程述べた視点から、日本人も世界的視野を持って考え、行動しなければいけないと思うのです。
所で、西ヨーロッパは、何処へ行っても思ったより美しかった。整備された公園、歴史がある建物、明るく落ち着いた感じの街、緑いっぱい豊かさが見られる農村地帯等、何処へ行っても絵になる光景でした。老若男女の市民が公園で思い思いに過ごし、楽しんでいる光景をたくさん見掛けました。中には、1日中ユッタリと過している人達もいました。彼等は肉体的にも精神的にも休養が与えられている、休養を取り得る権利を有しているように見えた。そんなヨーロッパを私は肌で、心で感じました。その為にも私は歩いて行ったり、ヒッチをしたり、田舎駅を降りてみたりと倹約旅行して来ました。
 スイスの山を40万円で行って来られるし、度胸があれば片道13万円でヨーロッパは、自分の物になる、とある旅人の話もあった。実際に色んな想いでこちらに来た学生、或いは退職、休職して来た若者に私は出逢いました。そして一応に彼等は、「ヨーロッパは、来るそれだけの価値ある所だ」と言っていました。
 今、パリのマサオの部屋でこの手紙を書いています。8月24日にイギリスへゴールデンアロー号で行きます。私は本当にこちらに来て良かったと思います。元気でいて下さい。

二度目のパリにて~知日家のオランダ人

2021-08-19 14:21:27 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
二度目のパリにて

・昭和43年8月19日(月)晴れ(知日家のオランダ人)
 ユースを出て中央駅まで歩いて行った。自転車通勤の人々で街は、忙しかった。
列車はアムステルダム発パリ-行き、8時54分フランスのTEEエトワールド・ノール号の全席座席指定であった。列車の旅は5時間位の予定、ドアは全自動、座席は綺麗な4人掛け、前のテーブルには真っ白い布で覆われていて、高級感がある列車であった。  
車掌の制服が、又カッコ良かった。TEE国際列車の車掌は、大概年配のベテランが担当していた。4人掛け用の座席には私の他、年配のアメリカ人夫婦と40歳台のオランダ人紳士であった。4人でトランプをして車中の一時を過ごした。このオランダ人は中々の知日家、江戸時代の長崎の出島も知っていて、日本経済の事も詳しかった。
 パリに到着したのは、午後2時頃であった。こちらは相変わらず暑かった。8月3日から今日帰って来て、パリは16日振りであった。勿論、行き先はトランクを置いて来たマサオの部屋で、前に来た時は鈴木と一緒であったが、今回は1人であった。
夜中の長距離列車の旅は、殆どで寝られなかったし、日本を発って以来、旅から旅へと常に移動、日本語が使えない気疲れ、或は、腹痛等の影響等で心身共に疲れが蓄積されている様であった。そんな理由でイギリスへ行く前、私はパリのマサオの部屋で休養をしたいと思っていた。又、シーラへ事前に行く日と時間を知らせなければならなかった。それにしても8月9日10日の腹痛には参った。2度とその様な事がならないよう願った。
 駅から直接、マサオのアパートメント・ハウスへ行った。部屋の鍵は掛かっておらず、入る事が出来た。一息入れた後、友達へ手紙を書いていたら、マサオの友達のフランス人が入って来た。彼はマサオから私の事を聞いていたようで、私が居ても特に驚いた様子でもなく、フレンドリーな態度で接して来た。彼と親しくなり、夜、2人でビールを飲みに行った。
 夜遅くなって、マサオはヒッチでイギリスへ行ったが、Dover(ドーバー)から引き帰って来た。その理由は、彼は滞在に必要な所持金不足でイギリスに入国が出来ず、戻されたとの事であった。 

アムステルの旅~アムステルダムで感じた事の話

2021-08-18 16:08:45 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△アムステルダム中央駅前の風景(PFN)

・アムステルダムで感じた事の話
 昨日、今日とアムステルダム観光して、感じた事を纏めてみた。アムステルダムは、運河と橋の多さが特に印象的であった。レンガ造りの古い家並みの合間を静かに運河が流れ、独特のハネ橋の下を上り下りの観光船や荷物運搬船が行き交う風景は、まさに絵の様であった。まだ、ヴェネチア(ヴェニス)へ行った事がないが、まるで『水の都』の雰囲気が漂っていた。
 そんな光景を見ながら、何処からか教会の鐘が辺り一帯に響き渡ると、一層旅情を醸し出してくれた。アムステルダムは歴史感が漂い、そして旅人の心を癒してくれる、そんな感じがする街であった。又、街角のあちこちの花屋さんがチューリップを始めたくさんの花を売っている光景や、そして街で民族衣装を着て『木靴』を履いている女性を見掛けると、まさにオランダらしい印象を感じた。  
 アムステルダムの朝や夕暮れ時は、駅や会社へ又、家路へ行く人々の自転車で道路は混雑していた。ここは自動車より自転車が人々の移動手段のメインであった。まさに『自転車天国』と言っても過言ではなかった。
そんな理由なのか、中央駅前の歩道は駐輪自転車が一杯で歩行者の妨げにもなっていた。国際観光都市、その表玄関での違法駐輪が罷り通っている現状を、行政は如何に対処しているのであろうか、疑問であった。
 所で、アムステルダムは11月下旬から12月上旬の季節の様であった。私は4枚着て観光したが、それでも太陽が照っていなかったので余計寒さを感じた。夜風が吹くと、両手をズボンのポケットに入れ、首を窄めて歩く程であった。私が利用した床屋のおじさんも、この天候に閉口していた。


アムステルの旅~オランダの生意気な子供達

2021-08-18 09:13:38 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ダム広場(PFN)

・昭和43年8月18日(日)曇り時々雨(オランダの生意気な子供達)
 アムステルダム2日目の今日、私は市内観光へ出掛けた。昨日、列車から降りた『アムステルダム中央駅』は、赤レンガ作りで東京駅に似ているので驚いた。東京駅がこの中央駅を真似して作った、と言う事なので、無理はなかった。
 この中央駅前から幾つも観光船が発着していた。市内運河巡りもあれば、アムステルダム港巡りもある。私は、後者の港巡りの観光船に乗った。客は私の他、地元の子供2人であった。どんよりして霧がかかり周りの景色はぼやけて、良くなかった。乗船して来たオランダの子供が非常に人懐っこく、直ぐに仲良くなった。私が日本人であると分ると、余計であった。
 彼等は日本のカメラやオートバイの良さ、そしてサッカーやその他のスポーツの事も良く知っているので感心してしまった。彼等は、小学2年か3年生ぐらいで、既に英語を習っていた。それにフランス語もドイツ語も知っていた。子供で既に4ヶ国語も5ヶ国語も知っている、とても増せている子供で驚いた。
英語も私より上手く、私の方が恥ずかしかった。何年英語を習っているのか聞いたら、まだ2・3年しか習っていないとの事。私は中学で3年、高校で3年、卒業してから独学1・2年程度、合計7~8年以上も習っていてこの子供より下手なので、全く情けない限りであった。日本人は如何してこうも英語が下手なのか、思うにそれは地理的に於ける環境の相異、言語系統の相異から来ていて、仕方がなかった。
驚いた事に、小学2・3年生と言えば8歳か9歳であろうに、タバコをスパスパと一丁前に吸っていた。私があげた訳ではなく、自分で持ち歩いていた。もう生意気を通り越して大人顔負けの態度なので、私は呆れて注意もしなかった。そんな子供達であったけれど、ガイド役を買って出て、「あれは○○、あの建物は△△」と説明してくれた。人懐っこいフレンドリーな、そんな子供達と共に港巡りが出来て良かったし、とても楽しかった。
乗船代は2ギルダーで安かったし、霧で霞んでなく天候が良ければもっと楽しかったし、もっと思いで残る港巡りであった、と思った。
 港巡りの後、国立美術館への途中、私の目の前で自動車が突然、停車中の自動車に衝突した。『ガシャンー』、それは一瞬の出来事であった。事故現場は、昼間の中央駅前の賑やかな通り、たちまち人だかりの山になってしまった。直に救急車やパトカーがサイレンを鳴らして到着した。
初めて衝突の瞬間を目撃して、私も大変驚いてしまった。後で気が付いたのだが、その現場の写真を撮っておけば良かったと思った。〝目撃者談話〟(私)~「信号で停車中の自家用車に他の自家用車が時速30kmぐらいで突っ込んだ。推測だが、ドライバーの前方不注意かブレーキ操作ミスが原因であろう」。
 今日も色々な事があった。腹痛で悩まされた事があったが、団体旅行では味わえない列車の旅を異状なく続けられ、自分なりに納得していた。明日、アムステルダムを去り、パリへ戻る事にした。

アムステルダムの旅~外国で散髪して貰う

2021-08-17 14:00:39 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△アムステルダム中央駅(PFN)

アムステルダムの旅

・昭和43年8月17日(土)雨(外国で散髪して貰う)
*参考=オランダの1ギルダーは、約99円(1セントは、約99銭)。
 9時間の旅で列車はアムステルダムに定刻通り、午前8時に到着した。欧州の列車は時間がルーズであると本で読んだ事があるが、私の乗った全ての列車は、ほぼ定刻通りに発着し、事故等で遅れた事はなかった。 
 所で、オランダの本当の呼び方は、Netherlands(ネザーランド)又はNederland(ネーデルランド)であり、Holland(オランダ)は、俗称であるとは知らなかった。
 ユースに着くと既に、多くのホステラーが受付に列をなして並んでいた。昼前なのに泊まる人が大勢いた。私も並んだ。1時間ぐらい待って運良く泊まる事が出来た。しかし、宿泊場所はこちらのユースではなく、かなり離れた別の場所であった。地図を頼りに行って見ると、そこの宿泊施設はまだ閉まっていて、入れなかった。泊まれるのが分っているので今日は、安心であった。
 市街をブラブラ歩いていたら床屋が目に入った。その場所は駅から少し離れた裏通り(日本の裏通りと少し感じが違う)、客は誰も居なかった。後何日かで、イギリスの彼女シーラ(Sheila)に会うので、散髪しておいた方が良い、と思った。
店のおじさんは変なのが入って来たと思ったのか驚いた様子、キョトーンとしていた。そして言葉はお互い通じなかった。私は「Hair cut only . ヘアー・カット・オンリー」と繰り返し、手を頭にやって切る真似をしながら言った。おじさんは分ったのか、頷いて席へ案内し、仕事に取り掛かった。
『どんなヘアースタイルにしてくれるのか、いくらするのであろうか』とやって貰っている間、心配で仕方なかった。話しによるとアメリカでは、床屋代はかなり高いと聞いていた。 
しかし、終って見ると取り越し苦労であった。カットスタイルは、自分の気に入った通りであったし、カット料金は1ギルダー75セント(約174円)であった。思ったより安くて良かった。髭剃りとシャンプーなし、20分程で仕上げた。日本ではカットだけの床屋はなく、1時間ぐらい掛けて一通りやるのが基本であった。おじさんは人が良さそうな感じがしたので、チップに日本の絵葉書を差し上げた。外国で初めての散髪であった。 

ミュンヘンの旅~西ドイツの鉄道員と美味しいビール

2021-08-16 11:38:57 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ブーフローエ停車場(PFR)*当時と全く構内が狭くなった。

・昭和43年8月16日(金)晴れ(西ドイツの鉄道員と美味しいビール)
*参考=西ドイツの1マルクは90円(1Pfennigは90銭)

 照井と折角再会したが、別れて旅をする事にした。何も彼と喧嘩別れ、或は気まずい思いをして別れるのでもなかった。照井はもう少し私と共に旅をしたかったようであったが、ただ、『お互いに1人旅の方が良いのでは』と私が判断したまでの事であった。理由は、「私には私の旅があり、照井には照井の旅がある」と言う、ただそれだけの事であった。彼はもう1日か2日、ここに滞在する予定だ。私はユースを去った。
別れ際に、「照井さん、元気で旅を続けて下さい。昨夜は取って置きのラーメン、本当にご馳走様でした」と私は礼を述べた。
「Yoshiさんも元気で。縁があったら、又何処かで逢いましょう」と彼。
それは偽りのない照井の、そして私の言葉であった。別れは辛く、そして寂しかった。折角2日前に彼と逢えたのに、別れて旅をしなければならないとは・・・。でも、これが旅であった。
 8時59分、ブレゲンツ駅からMunich(ミュンヘン)行きの列車に乗った。1等車のコンパートメントに私1人が乗っていたら、途中の駅から30歳ぐらいの西ドイツ人1人が入って来た。彼は最初、貧乏くさいラフな格好をしている変な外人が1等車に乗っているので、変な疑いの目(不正乗車)で見ていた様な感じであった。
その彼が話し掛けて来たので、「私は1等車にも乗れる正当なユーレイルパスを持って、欧州列車の旅をしているのです」と言ったのだ。それは、「不正乗車はしていません」という意味を込めてであった。そして、「私は日本で運転士をしている鉄道員です」とも言った。
するとその彼は、「私も鉄道員で、Buchloe(ブーフローエ)駅で信号係をしているのです」と言って、私に対する疑いの目はなくなっていた。
我々は同業者・仲間意識よろしく、お互い片言の英語で話し合った。そして、我々は意気投合した。彼の給料は月1,500マルク(税引き後は1,200~1,300マルク)で日本円にすると135,000円、比較して私の退職時の給料は23,000円であった。お互いの給料額の事から日本の鉄道や新幹線の事、或は私の旅の事等について話し合った。
彼はこれから駅に出勤するとの事で、彼の下車駅ブーフローエで降りる際に、「立ち寄って行かないか」と職場見学よろしく、誘ってくれた。彼の勤務や職場に迷惑を掛けては申し訳ないと言う気持ちがあって、私は有り難く断った。我々は固い握手をし、そして彼は下車して行った。
 ブーフローエ駅は、本線が交差する主要な駅であった。構内は長く、広く、何本も線路があった。その構内の中央付近に信号所としては大きな建物があった。『彼は、あそこで働いているのかな』と思いつつ、列車はその信号所前を通過して行った。一瞬、『立ち寄れば良かったかな』と思った。 
ソ連のシベリア鉄道以来、鉄道員と車中で再び出逢った。退職して来たとは言え、鉄道員意識が薄れている訳ではないので、同じ鉄道員に出逢えたのは、嬉しい事であった。
 それからミュンヘンへの途中駅で日本では勿論、外国でも初めて、私は蒸気機関車が牽引する〝混合列車〟(客車と貨車が連結されている列車)を見た。アウトバン(ドイツの高速道路)と自動車が発達しているドイツで、一昔前の混合列車がまだ健在とは、驚きであった。私が勤めていた会社の線区でも昔、その様な混合列車が走っていたが、我々の時代には既になかった。
 12時09分、列車は3時間の旅を終え、ミュンヘン駅に到着した。駅を出てから私は、駅近くの公園のベンチに腰掛けて、タバコを吹かしながら休んでいると、色んな人に話し掛けられた。「0.4マルクとタバコ1本交換してくれ」と浮浪者風の男に頼まれ又、私の隣に座っていたイギリス青年には、「イギリスは月50ポンド(1ポンド約1,000円)程しか稼げないので、ノーグッドだ」と聞かされた。でも暫らくして日本女性(?)がフンでもスンでもなく、私の前を通り過ぎて行った。こんな時、同じ邦人としてチョッと寂しい感じがした。
 日中の太陽の下は暑かったが、日陰はそうでもなく、日本と違って蒸し暑さがなかった。暫らくの間、私は今後の事についてそのベンチに座りながら考えた。
その結論として、今夜ミュンヘンを発ってAmsterdam(アムステルダム)へ行く事にした。理由は、7月26日にユーレイルパスを使用開始したので、有効期間は8月25日までであった。24日か25日にイギリスへ渡る予定なので、その2~3日前までにパリに戻ってシーラに会う日時を連絡しなければならなかった。残りは後5日しか残っていないので、ミュンヘンで宿泊する余裕がなくなった。従って、午後10時59分発アムステルダム行き列車があるので、それに乗る事にした。それまで時間がまだ充分あるで、市内見物がてら、街を散策する事にした。 
 駅前やその周辺の道路及び市電の線路の工事を大々的に行っていた。最初、ミュンヘン駅に降り立った時、如何して駅前が工事で騒々しいのか分らなかった。4年後の〝1972年〟(今年は1968年メキシコの年)のミュンヘンオリンピックの為の工事である事に気が付いた。
それと関連しての事なのか、この都市は新しい近代的ビルデングが他の都市より多く見られたし、続々と建設中の建物もあった。まぁ、活気ある街と言えば聞こえは良いがその反面、騒々しい街であった。古い建物から画一化された新しい建物は、味もそっけもない機能重視の面だけを考えた物であった。そこには人の心を和む西洋建築の美と言う物が無く、しかも、周りの建物との調和がなかった。歴史あるミュンヘンの変貌を垣間見る思いであった。
 「ビール」と言えばドイツだ。その中で最も旨いと言われるのがBayern(バイエルン)のビール、その地名の中心地がここミュンヘンであった。「ここまで来てビールを飲まずして、いつ飲むのか」と言う心境であった。飲む場所は、こと簡単に見付ける事が出来た。駅の構内にも幾つかスタンドバーがあったし、街の中でもあちこちにビヤホールがあった。勿論、私は試しに飲んでみた。1マルク(90円)で中ジョッキ1杯飲めた。安くてこれまた美味しく、結構いけた。濃くのある生タイプのビール、私は日本で過って味わった事のないビールであった。  
 夜、街をぶらついていると、こちらに来て初めて〝日本的なバー〟(日本的バーのあるのは以後、何処の国へ行っても見られなかった)を偶然に発見した。店構えは、『酒場』と言う感じがしたが、スタンドバーやビヤホールでもなさそうであった。私は何気なくドアを開け、中へ入った。薄暗い店内の隅にミニスカートに胸から巨乳がこぼれ落ちる程の女性5~6人が立っているのが目に入った。ボックス席では酒を飲みながら、男女が絡み合っていた。店のマダムらしき女性が、「どうぞ」と言わんばかりに私を席の方に促してくれた。私はこの様なバーで遊べる身分ではないと判断、早々退散した。でも、遊んでみたかった・・・残念だ。
西ドイツ・ミュンヘンは、言葉では難しいが、カメラ屋、ヨッパライ、そして女性を脇に座らせて酒(ビール)を飲んだり抱いたり出来るバーがあり、何となく雰囲気が日本に似ていて、何か懐かしさが感じられた。
 午後10時59分、アムステルダム行きTEE急行列車・レンブラント号(画家の名前に似ている)、牽引はアメリカ製EL電気機関車のオール寝台車であった。私は2等の寝台車(寝台料金は9マルク)を利用した。
寝台車の同じ寝室で南アフリカ共和国の女性と出逢った。彼女は白人、背は普通で感じの良い子であった。彼女の名前は、J・Hopf(ホフさん)で、Durban(ターバン)に住んでいると言っていた。彼女はとても日本に興味を持っていて、「来年かその次の年に日本へ行く」との事で、お互いに住所交換をした。彼女は、「是非、私の国へも来て下さい」と言ってくれたが、行けるかどうか、疑問であった。
ベッドに入り、『日本で彼女と会えるであろうか。もし来日したら、彼女を何処へ案内してやろうか』と考えていたら、いつしか夢の中に入って行った。

オーストリアの旅~即席ラーメンをご馳走になったが

2021-08-15 09:20:58 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ボーデン湖(PFN)

・昭和43年8月15日(木)雨後晴れ(即席ラーメンをご馳走になったが)
 6時に起きた。車窓から外を見ると、列車は高い山間部を縫うように走っていた。いつInnsbruck(インスブルック)に停車したのか分らなかったが、いつのまにかTirol(チロル)地方を走っていた。列車の両側は3,000m以上の山々が幾重にも連なり、真夏なのに残雪もかなりあった。本当に車窓からの景色は最高で、私はその眺めに首っ丈であった。
 私と照井はリンダウ(西ドイツ領)の一つ手前の駅、オーストリアの最西端Bregenz(ブレゲンツ)で下車した。この町の近くにLake-Boden(ボーデン湖)があり、観光地化された町であった。
駅を出てユースが何処にあるのか分からなかったので、駅前の観光案内版を見ていた若者達にユースへの行き方を聞いたら、彼等は我々をユースホステル(青少年用宿泊所。通常「ユース」と使用)まで案内してくれた。彼等も同じホステラー(ユースの宿泊者)であったのだ。我々は疲れていたのでユースで少し睡眠を取ってから、街へ出掛ける事にした。
 その後、我々は散策に街へ出掛けた。又ボーデン湖へも行って見た。そこで、1時間16シリング”(224円)の手漕ぎボートを借りた。スイス側の向こうの岸まで30分で行けるかと思い、一生懸命ボートを漕いでみた。30分経ってやっと3分の1程度しか行けず、戻って来た。若しかしたら3分の1も行かれなかった、かも知れなかった。広い湖は全く距離感が分らないと改めて知った。
ボートで引き返す途中、夕日が山の向こうに沈みかける瞬間、湖は黄金色に染まった。何と素晴らしい光景であろうかと、私はシャッターを切る事を忘れなかった。
 ユースに戻り、9時頃になって照井はわざわざ日本から1ヶ月以上も持ち歩いていた取って置きの即席ラーメンを私に出してくれた。彼は、「こちらに来たら日本食が恋しくなるから」と言って幾つか持って来て、それを大事に取って置いていたのだ。その最後の2個が、『日清のサッポロ味噌ラーメンと駅前一番』であった。私も『日本の味』を忘れ掛けていて、日本食が恋しくて仕方なかった。そんな時期に照井は出してくれたので、本当に有り難かった。オーストリアのこんな所で即席ラーメンが食べられるなど、つい先程まで想像もしていなかった。
早速、ユース管理人に鍋を借りて料理に取り掛かった。照井が、「面倒だから」と言って、サッポッロ味噌と駅前一番を一緒に煮て、そしてかまわずに違った味の粉末スープを入れた。久し振りに食べるラーメンなので、『さぞかし旨いであろう』と思っていたが、味が余りにも変わってしまい旨くなく、我々はガッカリした。やはり異なるラーメンは、それぞれ別個に作るべきであった。本当に残念であったが、それでも全部食べてしまった。

オーストリアの旅~あの照井さんとウィーン駅で再会

2021-08-14 14:46:48 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ヘルシンキ港にて~右が私、左はソ連からマドリードまでの旅の友の鈴木

・昭和43年8月14日(水)晴れ(あの照井さんとウィーン駅で再会)
 翌朝、顔を洗っていたら騒いでいた彼等に、「貴方は何人か」と聞かれた。「私は日本人だ」と言ったら、彼等はそれ以上の事は言わず、黙って行ってしまった。又、何人かの人に、「昨夜はよく言ってくれた」と握手を求められた。
昨夜の様に外国に来て、英語で5~6人のドイツ人に注意を言えるようになった事に、私自身が驚いた。どこからそんな勇気が沸いて来たのであろうか。『私も随分成長した者だ』と自分で感心してしまった。
 2日間滞在しようかと考えていたが、ユーレイルパスの有効期限の事を考えると、ゆっくりも出来ないので、ウィーンを1泊滞在しただけで、ユースを去った。
 ウィーン中央駅構内で時刻表を探していたら、モスクワのロシアホテルで大いに語り合い、7月23日にストックホルムで別れた、あの照井さんが私の前を宛もないように歩いていた。偶然と言えば、全くの偶然であった。広い欧州でこんな事があり得るのであろうか、信じられなかった。鈴木と別れて以来、1人旅の寂しさ、そして暫らくの間、日本語を話してないので心境を分ち合える照井さんを見付けて、私は非常に嬉しかった。
「照井さんー」と、私は大きな声で呼び掛けた。彼もこちらを振り向き、「あぁ、Yoshiさん」と言って一変に顔が赤くなり、安堵感が漂ったように見えた。照井さんも不自由な、そして孤独な旅を続けている様子を感じ取った。我々は互いに硬い握手で再会を喜び合った。私は鈴木と二人でストックホルムからオスロへヒッチで行く事を決めてしまった経緯があり、ストックホルムで照井さん(仮称で以後、敬称省略)を切り捨てる様な別れ方をしたので、元気で再会が出来て本当に良かったと思った。
「照井さんはこれから何処へ行く予定だったのですか」と私は彼に聞いた。
「うん、オーストリアの田舎の方へ行こうかと思っているのです」と彼。
「私もオーストリアの地方へ行って見たいです。2・3日一緒に旅をしませんか」と私。
「そうしましょう。私もYoshiさんと共に旅がしたいから」と言う事で話が決まった。そして、今夜の9時45分発Lindau(リンダウ)行きの列車に乗る事にした。リンダウはオーストリア、西ドイツ、スイス国境にあるボーデン湖近く、オーストリアから西ドイツに入った国境の町であった。
 私は照井からソ連のツアー仲間のA子さんの消息を聞くことが出来た。彼の話しによると、「A子はアメリカ人か欧州人か分らなかったが、青年と共に旅をしていた。しかし彼女はもう疲れきった様子で、何度かやられている、若しくは身を売って旅をしている様であった。いずれにしても分ったものではない」と言う事であった。
彼は或る所で彼女を見て(彼女と会って)、彼の感じで私に話をしたのであるが、『やはりそうであったか』と私も想像が出来た。何故なら、私は彼女と会い、そして話して行く内にいつかその様な事もあり得るだろう、と言う必然的なものをその時に感じ取っていたのだ。
 私と照井は駅を出て、近くの公園ベンチに腰掛けて話しをした。それにしても気が知れている者同士で語り合うのは本当に楽しかった。暫らくすると同年輩風の2人の日本人がやって来た。我々は直ぐに彼等と打ち解け合い、そして色々な事について3時間以上に渡って話し合った。
例えば・・・「欧州の公園について」(その素晴らしさ、市民に開放的な管理、それに対して日本の公園の狭さ、貧弱さ、そして閉鎖的でお金を取る所が多い事等)、「ヨーロッパの建造物について」(全ての建物に歴史があり、文化があり、又芸術的に富んで素晴らしく個性がある等)、「日本人旅行者、特に団体旅行者について」(彼等の品やマナーの悪さ、田舎者丸出し行為、外国に対する無知、もっと目を世界に向けるべき等)、そしてベトナム戦争、核・安保・防衛問題、学生運動等々について話し合ったのでした。
結論として、「日本人は、もっと心の豊かな人間にならなければいけないのではないか。毎日コセコセと働いているばかりでは駄目なのだ。のんびり公園等で一時を過ごす事も必要なのではないか。或いは、暇な時にはパチンコ、テレビ、マージャン等に夢中になっているが、もっとする事が他にあるのではないか」等々であった。
 夜、私と照井は午後9時45分発のリンダウ行き列車に乗った。『暖房』が効いていて、夜行列車の旅は快適であった。