YOSHIの果てしない旅(人々との出会い、そして別れ)

ソ連、西欧列車の旅、英国滞在、欧州横断ヒッチ、イスラエルのキブツ生活、シルクロード、インド、豪州大陸横断ヒッチの旅の話。

マドリードの旅~フランコの独裁国家

2021-08-04 09:42:41 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ユース近くの公園でスペインの美女達に囲まれる

・昭和43年8月4日(日)晴れ(フランコの独裁国家)
 目が覚め、起きて外を見た。それは素晴らしい光景であった。半砂漠化の様な木が生えていない山岳地帯を、列車は縫うように走っていた。山々が幾重にも連なり、そして列車はそれを越えて行った。

 マドリードに着いて、地下鉄を使ってユースへ行く事にした。マドリードの地下鉄の電車は古く、速度は遅く、車内は本も読めない暗さ、おまけに座席は木製、駅構内は暗く、汚い感じであった。
ユースがある駅まで最初、3ペセタ(15円)払って切符を買ったが、乗換駅出口で駅係員が切符を回収しているので渡してしまった。その乗換駅改札口を入るのに又、2ペセタの切符を買って入った。次の乗換駅で新たに買った乗車券を又、渡してしまった。3度乗換駅で3度2ペセタ払って切符を買って電車に乗らなければならなかった。改札を出なければ、乗り換え出来ない駅構内になっているのは、ここだけであろう。乗り換えの仕方と言うのか、切符の使い方と言うのか、最初分らず、4ペセタ余計に払ってしまった。後から分った事であるが、本当は最初の切符を通しで使えたのだ。乗り換える度に係員へ申し出て、『乗り換え証明のスタンプ』を押して貰うのが正規の乗り換え方法だったのだ。
地下鉄の乗り換え時、こんなやり方をしている国は他にあるか、と思った。言葉が全く通じず、苦労しながら電車に乗っている状態なので、乗り換えシステムが理解出来ず、4ペセタも無駄なお金を使ってしまった。20円と言ってもケチケチ旅行している私にとっては、無駄にしたくない金額であった。1ペセタは5円と言っても、こちらでは1ペセタを50円の感覚であった。
 
 スペインは、ヨーロッパで英語が一番通じない国であった。駅を降りてユースへ行くにも何回も道を尋ねて、苦労しながらやっと辿り着いた。ユースは空いていたので直ぐに泊まる事が出来た。我々は疲れているし眠いので一休みした後、市内へ散策に出掛ける事にした。

 市内散策後、ユース近くの公園で休んでいたら、我々の近くで3歳位の子供が1人、サッカーをやっていた。ボールを蹴っては走り、走っては蹴り、その光景は微笑ましかった。遠くの方を良く見ると5~6人の子供達がやはりボールを蹴って遊んでいた。スペインはサッカーが盛んな国、そして世界でもトップクラスであるらしい。それで『なるほど』と思った。日本はサッカーをやる人は珍しかった。このサッカー競技について、日本は後進国であった。
私のサッカー経験は、中学1年の体育の時間で何回かした程度であった。日本では子供から大人までスポーツと言えば、野球が盛んだ。特にプロ野球のテレビ観戦は、娯楽の一番人気になっていた。日本のサッカーは、いつになったらオリンピックやワールド・カップに出られることやら。
 その公園で我々はまだベンチに座っていると、スペイン女性4人が話し掛けて来た。4人とも皆、感じの良い女性で、その中に私好みの女性が1人居た。彼女は茶色の髪をスラット長くして、白の半袖セーター、短めの白のスラックス、目はキョロットして口元はしまり、胸の膨らみは良く、足もスッラとしていた。しかし、言葉がお互いに通じず今一つ、話しは盛り上がらなかった。もっと彼女等と話をしたかったのだが、本当に残念であった。





      









マドリードの旅~陽気なスペイン人

2021-08-03 13:50:10 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△ドン・キホーテの像(PFN)

・昭和43年8月3日(土)晴れ(陽気なスペイン人)
*参考=スペインの1ペセタは、約5円(10センチモは、50銭)。 
 トランクは持ち運びが大変なのでマサオの部屋に置いて(8月20日頃、戻って来る予定)、私と鈴木はマドリードに向けて出発した。必要最低限の荷物は、軽い手提げ用バッグを昨日買って、その中に入れた。
 前もって座席予約したIrun(イルーン)行き列車は、モンパルナス駅を午後2時05分、余裕を持って出て来たので充分、時間があった。我々は時間が来るまで駅前のカフェで、ゆっくりコーヒーを飲んで時間を過した。
イルーンは、大西洋側のスペイン領でフランスとの国境の町、近くにSanSebastian(サンセバスチャン)と言う大きな町がある所であった。

 イルーンには午後9時に到着した。Madrid(マドリード)行き列車は夜中の午前0時05分であった。コンパートメントには我々2人の他、後から田舎者風の5人のスペイン人が乗り込んで来た。真夜中で然も、乗車してから時間が経っているにも拘らず、彼等はのべつ幕なしにペチャクチャ唾を飛ばしながら、声高らかにして話し続けているのには参った。おまけに前の人の足がプンプン臭く、異臭を放っていた。寝ようと思っているのに寝られず、頭に来ていた。

 暫らくすると、彼等は林檎を取り出し、その1人が我々に1つずつ林檎をくれた。それから間もなくして一人がワインを荷物から取り出し、5人で回し飲みを始めた。5人の内、小学2~3年生位の子供が1人居たが、その子供までがグイグイとラッパ飲みをしていた。大人が子供に気にもしないで酒をかまわず飲ませていた。日本ではありえない光景であった。後から分ったが、スペインでは他の子供もワインを飲んでいた。
その内、私に彼等の回し飲みをしていた衛生的とは思われない瓶を、『飲め』と言わんばかりに差し出されてしまった。『弱ったなあ』と思ったが、根が嫌いではないので一口ゴックン、もう一口ゴックン。これは正直に旨かった。「ヴェリー・ナイス」と言ったら、「もっと飲め」と言うのだが、私は断った。
 これを機会に、彼等とコミュニケーションを図った。私は大して英語を話せなかったが、彼等はもっと話せなかったので、身振り手振りも加わった会話であった。彼等は陽気で屈託がなかった。「日本人は良く働き、スペイン人は余り働かない」とこんな事も語って一時を過した。ある程度、日本の事を知っているのだ、と感心した。
 
 2時間或はもっと過ぎた頃、列車はある駅に止まった。彼等はおもむろに、「何処の駅なのかなぁ」と外の駅名表示板を見た。自分達の降りる駅だと分るや否や、荷物を窓からホームへポンポン放り投げ、ドタバタと下車して行った。彼等のその慌て様ときたら可笑しくてしかたがなかった。
降りてから彼等は、窓越しに握手を求めて来た。スペイン語で何を言っているのか私には分らなかった。多分、「スペインの旅を楽しんで下さい。ごきげんよう、さようなら」と言っているようであった。
列車が動き出した。私が窓から手を振ると、彼等も見えなくなるまで手を振っていた。彼等は、本当に陽気なスペイン人であった。
 
 やっと静かになり、少しでも寝る事にした。「お休みなさい」。

パリの旅~語り合いとアラビアコーヒー

2021-08-02 16:53:30 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△セーヌ川に掛かる橋にて~後ろの建物はノートルダム大聖堂

・昭和43年8月2日(金)晴れ(語り合いとアラビアコーヒー)
 9時~10時頃まで寝ていた。私と鈴木が起きたらマサオは、温かいコーヒーを煎れてくれた。我々3人は、コーヒーを飲みながら色々な事を語り合った。

 その後、昼食用の買物に3人で出掛けた。近所の商店は結構買い物客で賑わっていた。マサオは我々の為に魚を買い、それを料理してくれた。昼食はフランスパン、トマトとレタスの野菜サラダ、魚料理、そしてワインであった。久し振りに豪華な食事で、魚料理は味付けが良く、非常に旨かった。 
「我々に食事代を出させて下さい」と言ってもマサオは、頑として聞き入れなかった。彼の生活は、ゆとりがあるように見えなかった。むしろ最低な生活状態にも拘らず、私と鈴木を持て成してくれたのだ。そんな彼の気持を心から有難く思った。
 
 午後も3人で再び色々な事を話し続けた。マサオの周りに日本人が居ないのか、日本語で話をするのが久し振りの様であったらしく、マサオも日本語で話す会話を楽しんでいた。又、『会社を辞め、旅行に出掛けて来るYoshiとはどんな人だろう』と彼も私と会う事を楽しみにしていた。
 
 そう、天井から垂れ下がっている赤い布切れは、曰くがあった。今年5月の〝プラハの春〟(市民が政治経済改革を求めた大衆運動)の時、パリでもこの大衆運動を支援の為、学生運動が盛りあがったとの事でした。マサオもそのデモに参加し、赤い布切れはその時に使用した赤旗の切れた布片の一部との事でした。余談ですが、このプラハの春に反対したソ連とワルシャワ条約機構軍が8月21日深夜、突如チェコ・スロヴァキアに軍事侵攻し、この改革を弾圧させた
 
 夜の8時過ぎ頃、マサオが「アラビアコーヒーを飲みに行こう」と言うので、近くのアラブ風喫茶店へ行った。狭い地下階段を降りて店内へ入った。そこは薄暗く、アラビア風の音楽が流れ、店内の装飾もアラビア風であった。一瞬、私は違和感を伴ったアラビアの世界に迷い込んでしまった、そんな感じがした。
彼はちょくちょくこの店に来ている感じであった。先客のヒッピー風の男性8人が既に座っていた。マサオが、「ボンスワー」と言って彼等とフランス語で何か話をしていた。そうするとヒッピー風のその人達は私と鈴木に握手を求め、友達の様に迎えてくれた。1つの発見だが、マサオは彼等に「マサオ、マサオ」と呼ばれ、皆に好かれていた。
出されたアラビアコーヒーは、率直に言って旨くなかった。濃くのあるストレートの味と言うか、苦味があった。半分飲むと粒がたくさん入っていた。それを更に飲むと、口の中がザラザラして来た。これは何であろう、コーヒー豆の粕か。私は喫茶店のクリームと砂糖入りのコーヒー以外、飲んだ事がなかったので初めての体験で、飲み方を知らなかったのであった。
 
 その後、我々3人は再び部屋に戻って今度は、隣部屋のベネズエラ人を誘ってカフェ店へ行った。4人で一時の夏の夜のパリを過ごした。


パリの旅~私が見た事、感じた事その8、メトロの話

2021-08-02 09:03:24 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
8、メトロの話

 パリの地下鉄(メトロ)について感じた事を書いておく事にした。
言葉が分らなくても、パリのメトロは本当に利用し易かった。
ドアは手動式であるから、乗る時、降りる時は自分で開ける仕組みになっていた。開けたドアは出発する前に自働的に閉まるので、自分で閉める必要はなかった。ドアを開ける場合、チョッと重いので、かよわい女性が乗降する時に手を貸してあげるのが、ここでのエチケットであった。美しい女性に、「メルシー」と言われると良い気分がした。
 
 行き先、又は乗換駅が分らない場合は、各駅に電光行き先表示板の駅案内があった。ボタンを押せば経路、乗換駅が点滅され、不案内旅客にはとても便利だ、と感心した。
駅構内は、電車を乗る通路(乗車通路)と駅を出る通路(出口通路)が別個に分かれていて、通路で乗る人と降りる人がぶつかり合う事はなかった。
電車の発車前は、乗車通路の最先端がアームによって遮断され、駆け込み乗車が出来ないように安全策が取られていた。これは、非常に良い方法であった。 
 
 電車の車輪はゴム製タイヤが使用され、地下鉄特有の騒音防止の効果があった。しかもゴム製タイヤは高加速・高減速が得られ、乗り心地もとても良かった。車内も、明るい感じがした。
車両によって2等車と1等車に分かれていて、2等切符で1等車に乗る事は出来ない。検札が度々あったし又、不正やトラブルになる様な事は、パリの市民はしなかった。
 
 運賃は、全線均一(0.37フラン=約26円)であった。切符をその都度買うよりも〝アン・キャルネ〟(2等回数乗車券)を買った方がより安く便利であった。改札口で切符にパンチを入れて貰うのは日本と同じであるが、出口で切符を係員へ渡す必要がなかった。夜の0時を過ぎ、終電近くになると駅員は、居なくなる。と言う事は、切符を買わずに、無賃で乗ろうと思えば乗れた。
 
 駅員は殆んどおばさんが多く、若い男性駅員はいなかった。パリの地下鉄だけではなく、モスクワやロンドンでも殆んど運転士を含め、女性が鉄道の仕事に従事していた。鉄道従事者は女性向きの仕事なのか、労働力が足りないので女性が補っているのか、給料が低すぎるのか、モスクワは男性の労働力不足を補っていると推測された。
 
 何と言っても日本と大きく異なるのは、乗客(バスの乗客も同じ)の方から切符を買った時、或は切符を切って貰った時など、「メルシー」とお礼(感謝)の言葉を発していた事であった。感謝を表す『ありがとう』の言葉は、イギリス、ドイツ、オーストリアを始め、広くヨーロッパ全般に聞かれた。
私の見た或いは経験の範囲で、切符を発売した時、パンチを入れた時、勿論、親切な案内をした時も、『ありがとう』の言葉はなかった。日本では、『ありがとう』と言う言葉は死語になってしまったのか。我々も彼等を見習うべきだと感じたのであった。
しかし自分を振り返ってその様な時、「有難う」とお礼を言った事があるであろうか(余りないかなぁ)。日本では『ありがとう』の言葉は言い難いのか、お礼を言っても、『どうも』であった。果たしてお礼(感謝)の気持を『どうも』だけで良いのか、帰国したら皆に聞きたかった。
 
 パリは、伝統と豊かな文化が満ち溢れ、それを支えに誇らしげに暮らしているフランス人、その首都パリは何箇月滞在しても飽きない都であろう、と感じた。 

パリの旅~私が見た事、感じた事その7、食べ物の話

2021-08-02 08:10:29 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
7、食べ物の話

 フランスは、食道楽の国と言われているが、下町の魚屋、八百屋等をのぞいて見ると、私が訪れたいずれの国よりもパリのお店は、商品の種類やその量が豊富であった。    

 私は何度かカフェテリアに入った事があったが、その店の料理が意外と安く、しかも大変美味しかった。料理を自分の目で確かめられ、自分の好きなだけ取る事が出来た。ある時など、メトロに乗ってわざわざ食べに行った事もあった。一流レストランで本物のフランス料理が食べられれば良かったが、それは私にとって到底出来ない話であった。
 
 フランスはスペインやイタリアと同じくワインが安く、種類も豊富にあった。安いワインは1フラン(70円)からあった。私は2フランの白ワインを水替わりに飲みなが、パリの観光、散策を楽しんだ。

パリの旅~私が見た事、感じた事その6、ファッションの話

2021-08-02 06:32:00 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
6、ファッションの話
 
 パリは、ファションの街であるが、フランス風のトップ・モードの女性は、意外と見掛けなかった。どちらかと言えば東京の方がファション的かなぁ、と言う一面もあった。

 しかしそこはフランス女性で田舎臭くなく、何処となくシックで洗練された感じがした。とは言っても、夏のパリは観光客が多く、パリジェンヌはバカンスに出掛け、私が見掛けた女性の多くは、他の国から来た観光客だったかもしれなかった。

パリの旅~私が見た事、感じた事その5、フランス・パンの話

2021-08-01 16:10:34 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
5、フランス・パンの話

 日暮れともなれば、そのままのフランスパンを3つも4つも持ち抱え、通りを歩いている主婦や労働者を見掛けた。60~70㎝の長いパンを何も包まない(非衛生的と思えるかも)で持ち歩く姿は、日本人にとって変わった格好であり、大都会の真ん中で市民生活が丸見えであった。それはパリの食生活を嗅ぐ思いであった。このフランスパンはとても硬かった。私はなかなか噛み切れなくて、3日後に歯茎が痛くなってしまった。アハハハー・・・

パリの旅~私が見た事、感じた事その4、お巡りさんの話

2021-08-01 15:52:18 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
*お巡りさんの話

 パリのお巡りさんは、特色、特徴があった。彼等は丸い帽子を被り、交通整理、パトロール、或は観光客の道案内をしたりして、市内のあちこちで見掛けた。彼等は一般の人達より背が高くスラットとしていて、皆ハンサムであった。お巡りさんは、パリのもう一つの『顔』とも言えた
                          

パリの旅~私が見た事、感じた事その3、セーヌ川の辺(ほとり)の話

2021-08-01 11:34:50 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
*セーヌ川の辺(ほとり)の話
 
 パリ中央に流れるセーヌ川の辺は、人々が集い、色々な人の為のエリアになっていた。ギターに合わせて歌う若者達の為の場所だったり、ヒッピー達の屯する為の場所だったり、若い恋人達が愛を確かめ合う為の場所だったり、観光に疲れた我々の為の休憩所だったり、釣り人の為の場所だったり、日光浴をする為の場所だったり、芸術家達が絵を描く場所の為だったり、セーヌ川は多種多様な人々の為の場所であった。セーヌ川は、正にそのままパリの風物詩であった。
そして、セーヌ川に沿って絵葉書や版画、或いは絵画等を観光客相手に売る店が結構多かった。又、ルーブル館近くのセーヌ川の橋にチョークで絵を描いている若者達が多く居た。パリは、まさに『芸術の都』、そんな雰囲気に溢れている街であった。

パリの旅~マサオは優しかった

2021-08-01 09:06:37 | 「YOSHIの果てしない旅」 第4章 西ヨーロッパ列車の旅
△マサオの部屋にて・・・Illustration drawn by Miho Yoshida(By M Yoshida)

・昭和43年(1968年)8月1日(木)晴れ(マサオは優しかった)
 私と鈴木はホテルを出て、マサオの部屋へ行って見た。今日も居なかったが、ドアは施錠されていなかった。彼はイギリスから帰って来て、何処か用事で出掛けているのだと思った。彼から手紙で、『いつでも自由に使っても構わない』と言う承諾を得ていたから、私はそうする事にした。
 
 我々は階段を上って3階の10畳程の広さの部屋に入った。部屋には、床に足の無い使い古したベッドと薄汚い毛布2枚、そして壊れそうな箪笥に似た物入れが1つあるだけで、その他は部屋に何も無かった。天井からは裸電が細長い赤布と共に垂れ下がっていた。明かりを点けても薄暗い部屋、これでは本や新聞等が読めない状態であった。
部屋の外の階段脇にあるビデ付きトイレと台所は、隣の部屋のベゼネイラ人と共用であった。部屋の大通りに面した小窓を開けると、外の眺めは良く、パリの香りが部屋の中に入って来たが、この部屋とは余りにも似合わない感じであった。
「パリ滞在中、自由に僕の部屋を使って下さい」と言ってくれた心優しいマサオは、どんな人であろうか。
 
 我々は、荷物をここに置いてパリ見物に出掛け、午後9時30分頃に戻って来た。10時30分頃、2人は小さな薄くて硬いベッドに各自、毛布1枚ずつ身体に巻いて寝た。
間もなく(11時過ぎ頃)したら、マサオが帰って来た。初めて対面した彼は、我々2人を快く迎えてくれた。
彼が留守していた訳は、「イギリスの友達に会いに、一昨日パリをヒッチで出立し、昨日イギリスへ渡ったが、滞在費を持ち合わせていない為に入国出来ず、引き返して来た」と言う事であった。後日の話ですが、私もイギリスへ渡る船中で、滞在費のチェックを受けた事があった。イギリスは、他の西ヨーロッパ諸国の中で一番入国審査が厳しかった。
マサオは、「往復ヒッチで昨夜は、その辺に駐車してあった車の中で寝たが、寒くって辛かった」と話していた。何はともあれ彼は我々を温かく迎えてくれて、親切な感じで良かった。

 今夜は遅いので寝る事にした。我々がベッドと毛布を使用しているので、彼の分がなかった。彼は直に床に身を伏せるように寝た。厚着して寝たのでないから、夜中は冷えると思った。我々の為に申し訳ない気がしてならなかった。