nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

千早城

2013年01月21日 | 大阪府の城郭・環濠

 大和国五条と河内国大ケ塚・富田林を結ぶ最短ルートとして、昔から交通、軍事の要衛であった千早街道から登りつめた金剛山より西に、元弘3年(1333年)、楠木正成が築いた連郭式山城で、楠木城の詰め城です。建武の新政以後、南朝方の楠木氏の居城となり城主は楠木正義、楠木正儀そして楠木正勝と続いていた。しかし南北朝時代末年となる明徳3年(1392年)楠木正勝の時に北朝方の畠山基国に攻められ千早城は落城した。現在、千早城跡は、千早神社になっています。

  [所在地:大阪府南河内郡千早赤坂村大字千早]

アクセス>近鉄長野線・富田林駅から金剛バスで金剛登山口下車徒歩約20分

千早城の概要

金剛山山道入口

 

  わら人形の兵士

 

階段を登っていく

  

千早神社(千早城本丸跡)                 

 

2013/01/19 訪城

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赤坂城の戦  元弘元年(1331年)

 後醍醐天皇が京都から大和の笠置山に逃げ込み、笠置山挙兵に呼応して、楠木正成は赤坂城で500騎で挙兵するが、大軍の鎌倉幕府軍のために落城。最後は自害を装い行方をくらます。のち再起して赤坂城を奪還する。

護良親王挙兵  元弘2年(1332年)   

 後醍醐天皇の皇子、護良親王が挙兵し、各地の武士に令旨を出す。

千早城の戦  元弘3年(1333年)

 楠木方龍城軍約1,000騎は、吉野・十津川の郷士と連携を保ち、金剛山中の城寒群を駆使してゲリラ戦を展開して鎌倉幕府軍約20,000騎を翻弄させ、後醍醐天皇方の勝利の原動力になる。龍城100余日にして鎌倉幕府は滅亡する。

湊川の戦  延元1年(1336年)

 九州で30,000騎の軍勢と水軍を整え、再挙した足利尊氏・直義の軍討伐のために新田義貞10,000騎、楠木正成・正季500騎で戦うが、新田義貞が敗走したため、包囲され、兵力差を埋めることができず敗れてしまう。楠木正成は弟・正季と刺し違え、自害する。足利尊氏は、再入京する。

藤井寺の戦  貞和3年(1347年)

 南朝方の楠木正行が700騎で挙兵、楠木正行の奇襲で北朝方の幕府軍(細川顕氏)3,000騎は敗走する。

四条畷の戦  貞和4年(1348年)

 北朝方の幕府軍(高師直)60,000騎で、本格的に楠木正行討伐を開始する。楠木正行は3,000騎で四条畷で戦い戦死する。

楠木正成(生年不詳~1336年)

 金剛山のふもと、河内の赤坂を本拠とし、運送労働者を束ねていたため和泉、北紀伊にもかかわりをもつ土豪。1331年、後醍醐天皇に応じて赤坂城に挙兵。建武政権樹立に大きな勲功をあげ、天皇の信任も厚かった。足利尊氏が叛いたのちも、一貫して南朝方で戦い、九州から東上する足利尊氏軍と湊川で戦って戦死した。

高 師直 (生年不詳~1351年)

 南北朝時代の武将。元弘の乱以降、足利尊氏に従い、室町幕府創立に軍功があり、室町幕府でも足利尊氏の執事として権威を振舞いました。その後、足利尊氏の弟、足利直義と対立し、正平3年(1351年),尊氏とともに直義軍に敗れ、剃髪帰順して京に向かう途中、武庫川辺りで直義党の上杉能憲に弟、高師泰とともに殺害されました。


伏見城

2013年01月21日 | 京都府の城郭・環濠

  京都南部の小高い丘に築かれた平山城。豊臣秀吉が天正19年(1591年)に隠居所として築いた屋敷を、文禄3年(1594年)から本格的な平城にし、周りに城下町も整備した。関ヶ原の戦いの前哨戦では、城将の鳥居元忠は壮烈な討ち死にを遂げ、伏見城は灰塵に帰した。その後家康の命により、いったんは再建されているが、二条城の修築によって存在意義が薄れたこともあり、元和5年(1619年)には、廃城が決まり、翌年から城割りがなされ、元和9年(1623年)、廃城となった。本丸一帯は、明治天皇の伏見桃山陵が造営されたことから立ち入りはできないが、城の御花畑山荘跡は、現在、京都市により伏見桃山城公園として整備され、その一角に模擬大手門と模擬天守と小天守が造られています。          

 [所在地:京都市伏見区古城山]

<アクセス>JR桃山駅下車徒歩約15分

模擬大手門

模擬小天守()と模擬天守()

 

2012/04/08 訪城

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伏見城炎上  慶長5年(1600年)

  関ヶ原の前哨戦である。西軍40,000万余騎が伏見城を包囲して攻撃を開始する。包囲開始から14日目に、守将の鳥居元忠ら1,800騎は城を枕に討ち死にする。本来なら数日で落とせるはずの伏見城に14日もの期間をかけたため西軍のその後の美濃、伊勢方面に対する攻略が遅れる要因となった。

鳥居元忠  (1539~1600)

  徳川家康の幼少から仕えた家臣で、通称は彦右衛門尉。関ヶ原の戦いの直前、徳川家康から伏見城の城将として守備を任せられ、8月1日、落城とともに討ち死にした。鳥居忠吉の三男。