九鬼嘉隆(くきよしたか)は、志摩国を平定して、文禄3年(1594年)に鳥羽湾を望む高台に位置する平山城の鳥羽城を築いた。寛永9年(1631年)九鬼守隆が没すると御家騒動(相続問題)が起き、翌年二家に分断され、鳥羽を去った。その後、内藤、土井、松平、板倉、稲垣と城主が変わり、幕末には、伊勢神宮を外国船の猛威から守るため、沿岸に多数の砲台を築かざるをえず、鳥羽藩の財政が圧迫されるという一幕もあった。明治6年(1873年)に廃城となった。
[所在地:鳥羽市鳥羽3丁目]
<アクセス>JR・近鉄・鳥羽駅南口から徒歩10分
▼鳥羽城の概要
2013/01/01 訪城
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九鬼嘉隆、伊勢の大湊で大型の鉄甲船6隻を建造 天正5年(1577年)
第一次木津川の戦で、織田水軍が、毛利水軍に敗れたため、織田信長の命により、鉄甲船を建造し、摂津大坂の木津川に回航して河口を封鎖する。天正6年(1578年)の第二次木津川の戦で毛利水軍を撃破する。
田(た)城の戦 慶長5年(1600年)
関ヶ原の戦の一環。徳川方に与した嫡子九鬼守隆(徳川方)と大阪方に与した父の九鬼嘉隆(大阪方)の戦いです。九鬼守隆は、功により志摩の領土を安堵された。敗れた九鬼嘉隆は、答志島へ逃れ自刃した。
鳥羽藩主、江戸の芝・増上寺で大名刺殺 延宝8年(1680年)
藩主内藤忠勝(3万2千石)が将軍家菩提寺の芝・増上寺で、前将軍家綱の法要中に宮津藩主永井尚長(7万4千石)を刺殺する。法要勤務の上で両者が対立して、刃傷に及んだ。永井尚長は無嗣で除封。内藤忠勝は、切腹になりました。
◆九鬼嘉隆(1542~1600)
志摩の人で、はじめ北畠氏に属す。織田信長に仕えて水軍の将。天正6年(1578)11月6日、毛利方軍船を木津河口で撃破、大阪湾の制海権を握った。後、堺に常駐。関ヶ原の戦の一環の田(た)城の戦では、大坂方に味方し、嫡子九鬼守隆(徳川方)と戦う。敗れて、答志島へ逃れ自刃した。
天正10年(1513年)伊藤武左衛門が城館を築いたのが桑名城の起源と考えられる。天正2年(1574年)に織田信長がこの地を征し、武将の滝川一益が入府。その後豊臣秀吉の時代には支配者が目まぐるしく入れ替わったが、関ヶ原の戦い後、徳川四天王の本田忠勝が桑名10万石で入府し、城を約10年を要して大改修した。元和3年(1617年)忠勝の子忠政は播磨姫路へ移封になり、松平定勝が封じられる。松平氏は一度転出するが、文政6年(1823年)に再び桑名に戻り、明治まで居城にした。現在は、九華公園として、桜やつつじの名所である。
[所在地:三重県桑名市吉之丸]
<アクセス>JR関西本線・近鉄名古屋線・桑名駅東口から徒歩15分
▼桑名城の概略図
▼本田忠勝像
2011/11/01 訪城
蒲生氏郷が、天正16年(1588年)松ケ島城に入城したが、城が狭く、海岸に近すぎるので、古城砦のあった四五百森に大規模な要害の城を築城した。松坂城と名付けられた城は3層の天守もある平山城である。氏郷は2年後、会津に移り、そのあとへ服部一忠が入府した。元和5年(1619年)以後は、紀州藩領となり、城代が置かれた。現在は、松阪公園になり、本丸や二の丸、天守台に石垣が残っています。
[所在地:松阪市殿町]
<アクセス>JR・近鉄・松阪駅から徒歩約15分
▼松坂城の概要
▼松坂城の縄張り図
▼二の丸跡
▼本丸下段跡
▼本丸跡
▼本丸上段跡 ▼松阪開府之碑
2013/01/01訪城
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伊勢暴動 明治9年(1876年)
明治維新により新政府は次々と改革を進めていったが、その中に米の代わりに現金で納めるなどとした地租改正を行った。従来の税収を維持するように地租を定められたため、農民の負担は軽くならず、各地で農民の不満が高まっていた。明治9年(1876年)12月に三重県飯野郡(現在の三重県松阪市)に端を発した暴動は、愛知、岐阜、堺県(現在の奈良県)まで拡大した地租改正反対一揆である。
この伊勢暴動を受け、時の為政者、大久保利通は、地租改正がうまく進まなかったことに焦り、12月31日、閣議を招集、翌、明治10年(1877年)1月14日地租3%を2.5%に下げたのである。このため、国家予算の8割超を地租収入が占めていた明治政府は、1,000万円以上の歳入減という大打撃をこうむり、官僚の削減、役所の削減が断行された。死者35人、負傷者48人などを含む処分者50773人という多くの犠牲を払いながら民衆が新政府に勝ったのである。
大久保利通は、明治11年(1878年)5月14日、士族6名により、暗殺された。暗殺理由は、『法令の乱用による政府官史の私利私欲』などです。暗殺後、凶器を投げ捨てて、まっすぐ宮内省に駆けむかい、門前に立ち、大声で自分たちが大久保を殺害の下手人であると名乗りました。彼ら刺客は、さすが『武士』でした。
古代より大和と河内を結ぶ要所の標高433mの信貴山雄嶽を中心に築城された山城です。奈良県下最大規模を有する城郭です。中世には、護良親王が鎌倉幕府軍への対抗拠点にするなど戦略的に重要な位置にありました。その後、戦国時代には、木沢長政が天文5年(1536年)に城を築き永禄2年(1559年)、松永久秀が大規模な城郭を再興。松永久秀は翌年築城の多聞城と合わせて大和支配の拠点とするが、天正5年(1577年)織田信長に反抗して信貴山城に籠城、敗死する。現在、本丸跡には、信貴山朝護孫子寺の空鉢堂が建てられています。
[所在地:奈良県生駒郡平群町信貴山]
<アクセス>信貴山朝護孫子本堂付近から徒歩約30分
▼信貴山城の概要
▼信貴山城本丸跡 ▼本丸跡より展望風景
▼信貴山城の戦い (学研「歴史群像シリーズ・風雲信長記」より)
2012/05/13 訪城
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信貴山城の戦い 天正5年(1577年)
松永久秀が織田信長に対する二度目の謀反をする。織田信忠が40,000騎で信貴山城を包囲する。松永久秀は、8,000騎で籠城戦を展開するが、信貴山城方が裏切り松永久秀自害する。筒井順慶の大和支配回復する。
◆松永久秀(?~1577年)
もと三好氏の臣だが、三好三人衆と対立し争いを続ける。永禄10年(1568年)入京した足利義昭に降って幕臣となり、大和一国の扱いを任された。しかし元亀3年(1572年)織田信長に反抗。翌年降参して許されたが、佐久間信盛の与力に格下げされる。天正5年(1577年)信貴山城に籠って再び、反抗する。織田信忠軍の攻撃を受けて10月10日自殺した。
築城時期は不明だが、戦国時代に、布施氏が葛城の金剛山地から東に派生した尾根の中腹、標高460m付近に詰めの城として築城した山城です。布施氏は、古代豪族置始連を祖とし、葛城一帯を領し興福寺一乗院門跡坊人の国民に列し、武士としての活動は、平安期から知られている。同じ坊人同志の誼で筒井氏とは早くから交流を保った。のちに布施氏は、筒井順慶の内衆に連なって一党は筒井氏の家臣となり、筒井定次の伊賀転封にも同行している。
[所在地:奈良県葛城市寺口布施]
<アクセス>近鉄新庄駅から徒歩約60分(3.5Km)
▼大和布施城の概要
▼城道(じょうどう) ▼本丸(主郭)
▼本丸跡(主郭跡) ▼本丸跡(主郭跡)よりの展望
2012/09/22 訪城
南北朝以来、春日神社国民で興福寺被官に列した有力国人の秋山氏が、標高470mの古城山上に本城として築いた山城(秋山城)です。天正13年(1585年)、羽柴秀長の大和郡山城入部により秋山氏は追放され、豊臣家の配下の大名の居城となり、城は大きく改修され城下町の整備も進められた。関ヶ原の戦い後入封した福島高時の時、城下町の名を松山と改めた。福島孝治が元和元年(1615年)に改易された時、城は破壊された。その後入封した織田信長の次男織田信雄の宇陀松山藩は城を使用することなく、麓近くに居館を構えた。その後、宇陀松山藩は、元禄8年(1695年)に改易になり以後、幕府領となった。現在は、空堀、曲輪跡、石垣などが残されています。
[所在地:奈良県宇陀市大宇陀春日]
<アクセス>近鉄榛原駅から『大宇陀』行きバスに乗り「西山』下車。徒歩約20分
▼宇陀松山城大手筋の西口関門
▼城下町『松山』の概要
▼宇陀松山城跡
▼天守郭 ▼天守郭からの展望風景
2012/10/19 訪城
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宇陀くずれ 元禄7年(1694年)
元禄7年(1694年)9月29日、織田信長から数えて五代目の松山藩主織田信武38歳の乱心により、重臣田中五郎兵衛・生駒三左衛門を切り殺すという事件がありました。一ヶ月後に信武は自害して果てました。同家は、織田信長の血統であるということを重んじられて信武の子・織田信休への家督相続こそ認められたが、所領を2万石に減らされた上で丹波国柏原藩へ減移封となりました。国主として扱われた待遇も、この時に剥奪されてしまった。なお、宇陀松山藩もこれをもって廃藩となった。
14世紀前半に、土豪の越智氏が南朝の呼びかけで築城したのが始まりです。標高584mの高取山の山腹に戦国時代、豊臣秀長が大和郡山の詰城として重臣の本田利久に大修復させ堅固な城として完成させた日本有数の山城です。文禄4年(1595年)増田長盛が大和郡山城に入場するが、本田氏はそのまま高取城主として残った。本田氏の断絶後、寛永14年(1640年)旗本の植村家政が大名に取り立てられて入城し、2万5千石の居城とした。3重の天守と小天守をもつ城であった。以後、明治維新まで植村氏が14代に渡って城主となった。明治6年(1873年)廃城となったが、高石垣は、完全な姿で残っている。
[所在地:奈良県高市郡高取町高取]
<アクセス>近鉄・壺阪山駅より徒歩約70分(3.8Km)
▼大和高取城の概要
▼大和高取城の縄張り図
▼大手門跡
▼本丸跡(郭内跡)
▼再現の大和高取城
2012/11/19 訪城
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大和永亨の乱 永亨2年~永亨12年(1430~1440年)
一乗院衆徒(筒井氏派)と大乗院衆徒(越智氏派)の衆徒間の争いをきっかけに、大和の豪族たちが、筒井・越智の両派に分かれて抗争する。転戦の末、反幕府体制を目論んだ越智氏が、幕府介入により敗走する。
天誅組の変 文久3年(1863年)
孝明天皇が攘夷祈願のため、大和行幸を決定する。土佐の脱藩志士らが大和で倒幕挙兵し、十津川郷士らと五條代官所を襲撃。さらに約1,100騎で高取城を攻撃する。高取城方約2,300騎は、大砲で反撃したので、攻撃は、失敗に終わり壊滅する。大和行幸は中止となる。(京では公武合体派の政変、三条実美ら七卿の長州落ちする。)