nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

名張城

2013年02月03日 | 三重県の城郭・環濠

 土豪の砦があった跡に、天正13年(1585年)筒井定次から伊賀名張8,000石を与えられた松倉重政(勝重の子)によって居城として築かれた城です。その後、慶長13年(1608年)に定次が改易となった後は藤堂高虎の城となったが、元和3年(1617年)、一国一城令により廃城とされた。寛永13年(1636年)に伊予今治から高虎の養子である高吉(織田信長の重臣丹羽長秀の三男)が2万石の大名として入城し、名張藤堂家を起こした。そして旧名張城跡に、陣屋を築いた。藤堂高虎のあと実子高次が家督を継ぐと、高吉は藤堂藩の家臣となり、高吉の死後、次男以下三名に5千石が分知され1万五千石となり、名張藤堂氏11代の陣屋として明治維新をむかえた。明治6年(1873年)に、ほとんどの建物は、取り壊されたが、現在、陣屋(殿館)建物の一部が残っている。         

 [所在地:三重県名張市丸の内54]

アクセス>近鉄大阪線・名張駅から5分

              

             ▼名張藤堂家邸跡(三重県指定史)

 

                                             祝間 東より望む        

 

庭 園

 

旧正門(太鼓門)

 

 

2013/02/03 訪城

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藤原千方窟・・・朝廷に反抗した千方が平安時代に四鬼(金鬼・風鬼・水鬼・隠形鬼)を従えここに立てこもったという。四鬼は、伊賀忍者の阻という伝説もある。

天正伊賀の乱 天正9年(1581年)

 天正7年9月、伊賀国の織田信雄が、8,000騎で、伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年織田信長は、45,000騎の大軍勢で、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に殺戮した。天正9年の伊賀再討は伊賀全土が焦土と化した。