nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

飛鳥から藤原宮跡散策

2013年02月11日 | 文化・歴史散策

2013/02/10 奈良県明日香村の近鉄飛鳥駅から藤原京跡へハイキングに行ってきました

[ハイキングコース] 近鉄吉野線・飛鳥駅・・・文武天皇陵・・・橘寺・・・川原寺跡・・・飛鳥寺・・・蘇我入鹿首塚・・・明日香文化財展示場・・・大官大寺跡・・・藤原宮跡・・・近鉄大阪線・大和八木駅

文武天皇陵文武天皇は天皇に即位されて10年(707年)に崩ぜられ、この地に葬られたのである。

 

橘 寺・・・もと用明天皇の別宮のあったところで、聖徳太子誕生の地である。

 

川原寺跡・・・川原寺は、斉明天皇が離宮として665年に造営された川原宮を寺としたもので、天武朝には勅願寺となり、我が国有数の大寺となった。

 

飛鳥寺(安居院)・・・蘇我馬子が588年に創立した日本最初の本格的寺院。飛鳥寺の蹴鞠の席で中大兄皇子と中臣鎌足が知り合い、大化の改新の盟約が成立したという。

 

蘇我入鹿首塚・・・豪華を誇った蘇我入鹿の野望も、中大兄皇子と中臣鎌足の暗殺の密謀の前についえ、入鹿の亡霊は怨念をはらすため、このあたりに青くもえた。飛鳥寺の西側約50mのところに五輪塔が、鎮魂と慰霊のため建てられ供養されている。

                               ▼明日香村埋蔵文化財展示場

              

大官大寺跡・・・大官大寺は九重の塔がそびえる大寺院だった。

 

藤原宮跡・・・持統8年(694年)~和銅3年(710年)の都城

 

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吉備氏の乱  雄略7年(463年) 

 古く岡山県西部から広島県東部にまたがる地は吉備(きび)と言われた。五世紀の吉備地方には、有力な豪族吉備氏がおり、たびたび大和朝廷に対して反乱を起こした。大和朝廷の勢力が北九州を押さえ、さらに朝鮮半島へ進出するためには、瀬戸内海沿岸の吉備氏のような勢力を完全に従える必要があった。雄略7年、吉備氏が新羅と結託して大和朝廷に反乱を起こしたが、反乱は、失敗した。次の天皇清寧(せいねん)は吉備氏を攻め、吉備を完全に平定し、吉備の所有する山部の民を没収した。

磐井の乱(いわいのらん)  継体21年(527年)

 継体21年、ヤマト王権軍は、新羅に奪われた南朝鮮南部を回復するため任那へ向かって出発した。この計画を知った新羅は、九州地方北部の有力者の磐井(筑紫国造磐井)へ賄賂し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。近江毛野率いるヤマト王権軍60,000騎の進軍を筑紫君磐井(筑紫国造磐井)がはばんで交戦した。磐井は本拠地筑紫の国(のちの筑前・築後=福岡県)だけでなく、火の国(のちの肥前・肥後=長崎・佐賀・熊本三県)、豊の国(のちの豊前・豊後=福岡県・大分県)にも及んで勢力を張っており、この反乱は北九州一円を巻き込むこととなった。このため、継体天皇の命を受けた征討軍の物部麁鹿火(あらかひ)は、8月出発したが、その後、一年余りにわたり、両軍は戦いを続け、ようやく翌年の継体22年11月磐井は敗れ、惨殺された。この反乱が鎮圧されて以降、大和朝廷の北九洲支配は著しく進展し、強化された。この反乱・戦争の背景には、朝鮮半島南部の利権を巡る主導権争いがある。

丁未の乱(ていびのらん) 用明2年(587年)

 古代史の学者たちは、仏教の礼拝を巡ってと論じられているが、実際は、磐井の乱の鎮圧に功があった軍事をこととする氏族の物部氏と朝廷の財政管理を担当して力をつけた新興の蘇我氏との朝廷内における主導権争いである。大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が乱を起こしたため、587年7月、蘇我馬子は、群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定する。馬子は、諸皇族の皇子、諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の守屋の館へ進軍した。河内国の衛香川の河原で物部軍と交戦した。守屋の軍は、善戦したが、守屋の一族らは殺され、守屋の軍は敗北して離散した。厩戸皇子(のちの聖徳太子)は、四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は、馬子のものになった。馬子の妻が、守屋の妹であるので、物部氏の相続の権利があると主張したためである。また、半分は、官寺の四天王寺へ寄進された。この戦いに勝利した蘇我氏は、物部氏の廃墟の上に寺院建立をはじめ自己の政策を実現していくことになります。 しばらくは、蘇我氏の全盛時代となるのである。      [神祇を職とする中臣氏は、この戦では、物部守屋に味方し、敗北しましたが、58年後、乙巴の変(いっしのへん)・大化の改新を起こします。]

大化の改新   大化元年(645年)

 新興豪族の蘇我氏が、渡来人の東漢人のバックアップを受けて、587年、最大豪族の物部氏を倒し、豪族たちを主導して飛鳥朝廷を確立していきました。蘇我氏の勢いに危機感を持った中大兄皇子は、飛鳥寺の蹴鞠の席で、中堅豪族の中臣鎌足と知り合い、大化の改新の盟約をする。中大兄皇子の命より、巨勢臣徳陀(こせのおみとこだ)が蘇我氏の最大の軍事氏族である東漢氏(やまとのあやうじ)を説得して中大兄皇子の味方に付けてから、中大兄皇子(のちの天智天皇)と中臣鎌足が宮中で蘇我入鹿を暗殺した(乙巴の変)。蝦夷一族は屋敷に火を放って自殺した。ここに蘇我氏宗本家は滅亡し新政権が発足する。公地・公民・班田収授の法、国郡制度、庸、調の税制などを定めた改新の詔が公布された。     [27年後、中大兄皇子(のちの天智天皇)が亡くなると、今までの専制政治の不満と皇位継承争いで、内乱(壬申の乱)がおこります。]

壬申の乱   弘文元年(672年)

 天智天皇の専制政治への不満と皇位継承争いで、天智天皇亡きあと、大友皇子(天智天皇の子)と大海人皇子(天智天皇の弟)が争い、大海人皇子が逆転勝利し、大海人皇子(天武天皇)による律令体制の強化。