福知山城の建築年代は定かではないが、室町時代に福知山地方の国人の塩見頼勝が、築城したのが始まりと言われています。塩見頼勝は後に姓を横山に改めたため、横山城と呼ばれていた。
その後、織田信長の命を受けた明智光秀が丹波国征討戦を開始、これに敵対した赤井・波多野・塩見等の国人衆を滅ぼした。これを期に丹波国に属していた国人衆は皆、光秀に降伏し、天正7年(1579年)丹波国平定が成った。明智光秀は丹波国を平定すると、近世城郭として改修され、これを福知山城と改名する。
天正10年(1582年)明智光秀は本能寺の変で織田信長を倒したものの、山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れ、福知山城も秀吉の属城となった。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後、有馬豊氏が61,000石で福知山に入府し、現在のような城郭と城下町を完成させる。2年後、有馬豊氏の父則頼の遺領2万石を継承し81,000石の大大名になった。しかし元和6年(1620年)12月、豊氏は久留米藩に加増転封され、その後、城主は、岡部氏・稲葉氏・松平氏とかわり寛文9年(1669年)6月朽木氏が32,000石で入城し以後幕末の明治2年(1869年)に至るまで約200年の長きにわたり朽木氏が福知山域を統治した。
明治6年(1873年)の廃城令で建物や堀、石垣等破壊されたが、福知山市民の寄付などにより、昭和61年(1986年)模擬天守・小天守等が復元されています。
[所在地:京都府福知山市字内記5番地]
<アクセス>JR福知山駅から徒歩約20分
▼福知山城の概要
▼模擬天守
▼模擬小天守
2013/05/03 訪城
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丹波国(京都府・兵庫県)・・・・・丹波は、古より京都へ向かう要衛であり、鎌倉末期には足利尊氏がここで倒幕の兵をあげた。織田信長は明智光秀に丹波を平定させた。
足利尊氏、挙兵 元弘3年(1333年)
足利尊氏は、幕府執権北條高時の命を受け反乱分子を押さえる為に、鎌倉を出陣してから各地の自領の兵を集めて丹波国・亀山の篠村に集結。ここで鎌倉に反旗を決断し亀山篠村八幡宮で挙兵、尊氏率いる討幕軍約20,000騎は、京都市中の六波羅探題軍約60,000騎を攻め鎌倉方は近江へ敗走する。
波多野氏、八上城に拠る 大永6年(1526年)
多気郡の土豪波多野氏、守護細川氏に叛き八上城に拠る。丹波国内に有力国人衆が割拠する。
八上城の戦 天正6年(1578年)
織田信長方の明智光秀が、応仁の乱後、波多野氏が入城していた東丹波の波多野秀治、秀尚を攻める。光秀は、母を人質に波多野兄弟を安土城に伴う。だが、織田信長は、波多野兄弟を処刑にする。八上城方も、光秀の母を処刑にする。天正7年(1579年)明智光秀の大軍に包囲され大激戦の末、八上城は落城した。