天正3年(1573年)、越前の朝倉氏は滅亡した。その後、織田信長は重臣の柴田勝家に越前8郡49万石を与え、越後の上杉謙信に備えるために朝倉氏の一乗谷城を廃止して、福井平野南部にある北庄(北ノ庄)に足羽川を天然の堀とする居城を築いた。これが北の庄城である。9層の天守を備えた城であったが天正11年(1583年)、賤ケ岳の戦いで前田利家ら部下の裏切りにより羽柴秀吉に敗れた柴田勝家は、北の庄城に逃げ込み火を放って自害したために城は築城からわずか9年余りで灰燼に帰した。発掘調査の結果、柴田神社境内が北の庄城本丸天守跡と推定され、そこには現在、柴田勝家の銅像も建てられて北の庄城址・柴田公園として整備されている。
[所在地:福井県福井市中央1丁目]
<アクセス>JR福井駅より徒歩5分
▼北の庄城址・柴田公園概略図
▼柴田神社
▼北の庄城址・柴田公園
▼柴田勝家像
▼北の庄城【想像図】
2018/03/16 訪城