伊賀盆地中央の台地に、天正13年(1585年)、大和郡山より伊賀に転封となった筒井定次によって築かれた平山城です。筒井氏改易ののち、藤堂高虎の所領となると5重の大天守が造営されるなど、堅固な城寒に姿を変えた。藤堂氏は、一族を城代家老として配置。廃藩置県まで、津藩藤堂家の支城として、伊賀一国の統治拠点としての役割を担いつづけた。現在の天守閣は、昭和10年(1935年)に当地出身の政治家の川崎克氏の寄付により、木造伝統工法によって建造された天守閣である。
[所在地:三重県伊賀市上野丸の内]
<アクセス>伊賀鉄道・伊賀線・上野市駅から徒歩8分
▼白鳳門
▼伊賀上野城の大天守(右)と小天守(左)
▼旧筒井城跡
▼深い内堀と見上げるような高い石垣
2013/01/24 訪城
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天正伊賀の乱 天正9年(1581年)
天正7年9月、伊勢国の織田信雄が8,000騎で伊賀平定に乗り出したが、伊賀衆のために敗退し、2年後の天正9年、織田信長が、45,000騎の大軍勢で、伊賀の全土豪、国人衆を相手に徹底的に殺戮した。伊賀再討は伊賀全土が焦土と化した。
筒井騒動 慶長13年(1608年)
筒井順慶の養子、筒井定次が筒井家の家督を継いでから,筒井定次が、重臣の中坊秀祐を寵愛したため筒井氏内部では、家臣団の対立が表面化した。伊賀上野に国替え後、筒井定次とソリが合わず重臣の松倉秀政、島政清興(左近)等が筒井家を去り、筒井家の実権は中坊秀祐が掌握し、彼による横暴が行われていた。慶長13年(1608年)6月,中坊秀祐は、駿府城の徳川家康に対し、主君の筒井定次の悪政や鹿狩りに熱中しての倦怠等を訴えた。このために筒井家は改易され、上野藩は、廃藩となった。中坊秀祐は筒井氏改易後、徳川家康から幕臣として取り立てられ、奈良奉行に任じられている。しかし中坊秀祐は慶長14年(1609年) 2月29日,京都・伏見で筒井定次の旧臣の山中氏によって暗殺された。
伊賀上野鍵屋ノ辻の仇討 寛永11年(1634年)
柳生流の刺客荒木又右衛門、義弟渡辺数馬主従の4人が河合又五郎、桜井半兵衛ら11人と死闘のすえ、大願を成就する。背景には外様大名と旗本の対立があった。赤穂浪士、蘇我兄弟と並ぶ日本三大仇討の一つです。