信濃守護小笠原氏の本城を守る支城の一つとして築いた深志城は、天文19年(1550年)甲斐の武田信玄が信濃府中に進出し、守護小笠原氏を駆逐。武田信玄は信濃経営の拠点とすべく深志城を大改修した。天正10年(1582年)武田氏が滅亡。そのすぐ後の本能寺の変による動乱の虚に乗じて小笠原貞慶が再び入城して松本城に名を変えた。後、天正18年(1590年)、徳川家康の関東入国にともない、松本城の小笠原氏が徳川家康に従って下総へ移ると、豊臣配下の石川数正が信濃松本8万石を与えられ入国する。石川数正は、中山道と北信濃全域を押さえる役目を担うにふさわしい城にするため、天守を始めとする城の大修築を行った。石川数正・康長の2代にわたる築城工事により石垣・天守を持つ近世城郭が完成した。天守が現存する城のうち、唯一の平城で、天守の建つ本丸を二の丸・三の丸が囲み、水堀で分けられている。
【所在地:長野県松本市丸の内-1】
<アクセス>JR松本駅から徒歩約20分
▼松本城案内図
▼復元された枡形門と櫓 ▼太鼓門の高麗門
高麗門の間口は櫓門と比べて狭く、土橋と
あせて一度に多くの軍勢の侵入を防ぐ。
▼黒門(太鼓門の櫓門) ▼鉄砲狭間・矢狭間
厚い塀壁には鉄砲狭間・矢狭間が張り巡ら
されている
▼天守東面
昭和27年(1952年)、天守と櫓が国宝に指定される。
左から、五重六階の天守(高さ29.4m)、辰巳附櫓(高さ14.7m)・月見櫓(高さ11.1m)が連なっている。
五重六階の天守への入口である大手口に渡櫓(高さ12.0m)。渡櫓の右に乾小天守(高さ16.8m)。
▼石落と狭間 ▼石落と狭間
厚い壁には石落と鉄砲狭間・矢狭間が張り巡らされています。
▼天守南東面
▼本丸の桜
▼天守南面
▼天守南西面
▼松本城保存の功労者
明治4年(1871年)廃藩置県。明治政府の財政難のため、全国の城の取り壊しが始まる。
明治5年(1872年)松本城天守が競売にかけられる。この時、松本市出身の市川量造らは
天守の解体に反対して保存活動を行い資金(235両余)を集め、売却された天守を買い戻す
ことに成功した。しかし、その後天守の老朽化が進み、建物が傾くまでになってしまった。
この時も市民が立ち上がった。明治34年(1901年)旧制松本中学校の校長小林有也らは
『松本天守保存会』を結成して、明治36年(1903年)から11年かけて天守の大修理工事を行い、
天守の倒壊の危機から救っている。
2024/4/8訪城