慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦で徳川家康側に従軍し、その戦功を認められて20万石となった加藤嘉明は、慶長7年(1602年)に伊予正木(愛媛県松前町)から道後平野の中央にある標高132mの勝山山頂に城郭を移すため工事に着手し、松山と命名した。しかし、完成まじかに加藤嘉明は会津に転封。替わって入封した蒲生忠知の代に松山城を完成された。嗣子なく蒲生氏が断絶したあと、徳川家康の甥・松平(久松)定行が入府。この時、5重から3重に改築された天守閣は、天明4年(1784年)落雷で焼失したが、安政元年(1854年)悲願の天守閣が再建された。現在、天守閣、一の門、戸無門等21棟の重要文化財をもつ四国最大の名城です。
[所在地:愛媛県松山市丸の内]
<アクセス> JR松山駅から伊予鉄道で道後温泉行きで約10分「大街道駅」下車徒歩5分
▼本丸の建物位置図
▼南側から望んだ天守閣
▼隠門続櫓 ▼太鼓櫓
▼戸無門(右)と筒井門西続櫓(左) ▼筒井門
▼隠門
▼井戸 ▼本壇(天守閣を中心とした曲輪)の建築群
▼天守閣(右)と小天守(左)
天守閣は、三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年落成した江戸時代最後の完全な城郭建築。
小天守は、二重櫓、小天守東櫓とも呼ばれ、大手(正面)の二の丸・三の丸方面を監視防衛する重要な位置にある。
天守閣、小天守、隅櫓を渡櫓で互いに結び、武備に徹したこの天守建築物軍はわが国の代表的な連立式天守を備えた城郭と言われている。
▼一の門
▼土塀・・・狭間(攻撃用の小穴)が設けられた戦闘的な土塀。
▼二の門
▼内庭からの天守閣(重要文化財)
▼大天守からの眺め
▼加藤嘉明公像
加藤嘉明は豊臣秀吉家臣では珍しい三河出身者。関ヶ原の戦では東軍に属し、石田三成軍を破るなどの戦功で松山藩主となる。のち会津藩主。
2015/04/02 訪城
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久万(くま)山百姓一揆 寛保元年(1741年)
財政再建を目指す松山藩の椿紙の専売強行などに反対し、久万山の農民が大挙して大州藩領内に逃散した。藩主の頼みで久万大宝寺の住職斎秀が説得し、多くを帰村させた。松山藩、藩史上最大の一揆。