御着城(別名、茶臼山城・天川城)は、永正16年(1519年),御着の茶臼山と呼ばれる5~6mの小高い丘上に、播磨守護赤松氏の家臣で姫路城代の小寺政隆によって築かれた平城で、赤松氏の一族、小寺氏の居城であった。亮禄3年(1530年),村宗の播磨侵攻で御着城が攻められ落城し、小寺政隆が自害する。しかし、亮禄4年(1531年)の中嶋の戦で村宗が戦死すると、小寺政隆の息子の小寺則職が御着城主に復した。そのころから、御着城を本城、姫路城を支城として、姫路城には家老の八代氏や黒田氏を城代として派遣していた。天正5年(1575年),織田信長軍の武将、羽柴秀吉が播磨に侵攻すると小寺則職の子、小寺政職は、当初織田氏に通じたが、別所氏や荒木村重の織田氏謀叛に同調し、毛利氏に鞍替えしたため、天正7年(1579年)羽柴秀吉軍2,000騎に攻められ落城した。その後、城割りが行われ廃城となった。現在は、本丸跡の一部が御着城公園になっています。
[兵庫県姫路市御国野町御着(旧・播磨国飾東郡)]
<アクセス>JR山陽本線・御着駅下車徒歩約15分
▼御着城跡 案内図
▼御着城址碑
▼天川橋
地形の中央部の低いところは、御着城の濠跡
▼黒田家の墓所(姫路市指定史跡)
毎年,4月29日に黒田氏,小寺氏等の末裔達が集まり、先祖供養を行っておられます。
▼『天川城址、小寺城主之奥都城』の碑
▼昔、御着城が羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)軍と戦い,戦死した
御霊の菩提を弔うために建てたものである。
▼小寺大明神
▼御着付近の史跡要図
2014/05/24 訪城