永禄3年(1560年)の桶狭間の戦に勝利した織田信長は、永禄5年(1562年)に徳川家康と清州城において清州同盟を結び、完全に東側の猛威が亡くなったので、永禄6年(1563年),小牧山に山城を築城し、清州から居城を移しました。南に大手口を設け、大手道は直線的に中腹まで登り、右に折れて屈曲しながら山頂の主郭に至ります。小牧山の南の原野には、東西1km,南北1.3kmの範囲に城下町が整備されました。小牧山城に移った織田信長は、犬山方面を支配下に置き尾張を統一するとともに、積極的に美濃攻略を行いました。4年後の永禄10年(1567年)には、美濃稲葉山城を攻略して、岐阜と名を改め居城を移しました。これにより、小牧山城は廃城となり、城下町は一部を残して衰えました。天正12年(1584年),小牧・長久手の合戦が起こると、徳川家康と織田信雄の軍勢は、織田信長の廃城に大規模な改修を行い、堅固な陣城を築きました。山の周りの二重の土塀や堀、虎口等はこの時に築かれたものです。小牧付近では大規模な戦は起こらず、戦の収束に伴い小牧山城は再び廃城となります。現在、小牧山城に残る城の遺構はこの時の小牧山城の姿です。江戸時代には尾張藩、明治時代には尾張徳川家の手厚い保護を受け、山中の堀や土塁等の残存状況は非常に良好で、日本城郭史上、貴重な資料になっています。昭和2年(1927年)に国の史跡指定を受け、昭和5年(1930年)に尾張徳川家から小牧町(当時)へ寄贈され、現在に至っています。山頂にある天守閣風建物(小牧市歴史館)は、昭和42年(1967年)に名古屋市の実業家の平松茂氏(故人・小松市名誉市民)が西本願寺の国宝「飛雲閣」(聚楽第の遺構)をモデルに私財を投じて建設し、小牧町(当時)に寄贈されたものです。現在は、小牧山全体が公園(史跡公園)となっています。
[所在地:愛知県小牧市堀の内1-1]
<アクセス>名鉄小牧線・小牧駅下車徒歩約25分
▼市街地から小牧山(小牧城)を望む
▼史跡・小牧山
▼小牧山公園略図
▼表示板をたよりに、登っていくと頂上に出る。
▼尾張徳川家19代徳川義親氏の像
▼模擬天主閣(小牧市歴史館)
▼模擬天守より東側を望む
▼模擬天守より南側を望む
▼縄張の概略図
▼小牧・長久手の戦の時、堀・土塁等が補強された。
2014/07/05 訪城
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小牧・長久手の戦 天正12年(1584年)
織田信長死後の跡目争いで、織田信勝が徳川家康に援軍を要請。織田信勝・徳川家康軍20,000騎と豊臣秀吉軍70,000騎が、小牧付近で対峙し、長久手の戦では、豊臣秀吉軍大敗。豊臣秀吉の中入りで三河撹乱作戦失敗。