明石の地は、山陽道が通り、北には丹波国,但馬国への道が分かれ、海路で淡路島、四国へのルートがあり、古来より交通の要衛であった。そのために、徳川幕府は、西国の外様大名の抑えの城として,元和3年(1617年)、大阪の陣に戦功のあった譜代大名の小笠原忠真に普請費用として銀一千貫を与え、10万石規模の築城を命じた。本丸には、五重の天守閣が建てられる予定であったが、実現せず天守台のみが残った。寛永9年(1632年)小笠原忠真は、5万石を加増され15万石で豊前国小倉に移封になった。その後は、戸田氏、大久保氏、松平氏、本田氏と替わり最後は越前国大野から松平氏が入府して明治に至る。明治6年(1873年)の廃城令で、廃城となったが、明治16年(1883年)、明石町内有志により明石公園として整備された。阪神・淡路大震災で大きな被害を受けたが、現在、石垣、土塀そして2基の三重櫓が修復されています。
[所在地:兵庫県明石市明石公園]
<アクセス>JR明石駅から北へ徒歩5分
▼坤櫓(左) と 巽櫓(右)
▼坤櫓 (三重三階)国の重要文化財 ▼巽櫓(三重三階)国の重要文化財
伏見城の遺構と言われています 船上城の遺構と言われています
▼坤櫓(三重三階) ▼巽櫓(三重三階)
▼帯郭と巽櫓
2013/6/26 訪城
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明石城の戦 天文8年(1538年)
尼子詮久(あきふさ) (のち晴久)の播磨攻略に対して、播磨守護赤松政村の家臣明石氏が叛き、赤松政村、淡路に敗走する。尼子氏、翌年から石見、安岐(毛利氏)を攻略する。
▼中部幾次郎翁銅像