元亀2年(1571年)9月、比叡山延暦寺焼き討ち後、織田信長は、明智光秀に近江国滋賀郡を与え、京と比叡山延暦寺の抑えとして琵琶湖の南湖西岸に坂本城を築城させた。その後、明智光秀は、坂本城を拠点に西近江の平定を目指す。さらに丹波国平定後、亀山城主となったが、坂本城も、明智光秀の持ち城であった。天正10年(1582年)山崎の戦の敗戦後、羽柴秀吉方の堀秀政軍に城を攻撃され、明智一族の明智秀満が天守に火を放ち落城した。その後、城は丹羽長秀により再建されたが,天正14年(1586年)、羽柴秀吉の命により、坂本城主の浅野長政が大津城を築城して居城を移したことにより廃城となった。資材は、大津城の築城に使用された。現在、坂本城の一部は、坂本城址公園として整備され、明智光秀像が建てられています。
[所在地:滋賀県大津市下坂本]
<アクセス>JR比叡山坂本駅下車徒歩10分
▼坂本城址の石碑
▼明智光秀像(坂本城址公園に建つ)
▼坂本城本丸跡碑
▼坂本城址の石碑(二の丸址)
2013/6/27 訪城
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比叡山焼き討ち 元亀2年(1571年)
浅井・朝倉に協力したことで、織田信長、比叡山延暦寺を30,000騎で焼き討ちする。そして、延暦寺の近江国の寺領を乗っ取る。
◆明智光秀 (1528年~1582年)
足利義昭から禄をうける幕臣だが、永禄11年(1568年)織田信長入京以前に織田信長と主従関係を結んだ。次第に足利義昭より離れ、織田信長の重臣の一人となる。元亀2年(1571年)坂本城主。焼き討ちされた比叡山の旧領を与えられ、堅田衆や北山城の土豪たちを摩下に置いた。天正元年(1573年)足利義昭将軍追放後も、しばらく京都所司代村井貞勝を助けて京の政務にたずさわっている。天正3年(1575年)6月より丹波経略を命じられるが、丹波ばかりでなく、大坂・雑賀・播磨等へも出陣している。丹波平定は、天正7年(1579年)9月。翌年8月これを与えられ、亀山居城。丹後の細川藤孝、大和の筒井順慶を与力とし、近畿管領ともいうべき地位にあった。天正10年(1582年)6月本能寺の変を起こして織田信長父子を殺し、最後山崎の戦いに敗れて土民に殺される。
▼天台真盛宗総本山 西教寺 ・・・・・・・ 明智光秀公と一族の菩提寺。
▼西教寺の総門・・・・・明智光秀が坂本城の城門を移築した
▼西教寺本堂
2013/7/6 訪問