nakazumi's blog

文化・歴史・城郭をメインに、時々『気になる事』を記す婆娑羅ブログ!

尼崎南部の城跡・寺町・運河めぐり

2014年03月09日 | 文化・歴史散策

2014/03/08  兵庫県尼崎市南部の尼崎城跡・寺町・運河めぐりの散策に行ってきました。

ハイキングコース>阪神・尼崎駅・・・尼崎城跡・・・寺町・・・貴布禰神社・・・北堀運河・・・北堀水門・・・阪神・武庫川駅

 

尼崎城略図

▼教職員と児童が一緒になって苦心して製作された尼崎城です。

 

尼崎城址碑   当時を模して造られた城壁(尼崎城址公園)

 

城下町と寺町

 天正18年(1590年),豊臣秀吉が京都の東の京極に寺町を作ったことをきっかけに、全国の城下町に数多くの寺町が建設されました。尼崎の寺町もその一つで、尼崎城築城の際に寺院が一箇所に集められました。また城下町の前衛部分を軍事的に固めるためにも利用され、大きな建物と境内は出城の役割を担いました。明治以降、都市化により昔の面影を失っている中で、約400年間寺院区画も当初のまま残されている尼崎の寺町は、今日において貴重な存在であり、多くの文化的遺産、歴史の資料が残っています。

 

 

法園寺

 

法園寺👉佐々成の切腹の地

 佐々成政は、天正15年(1587年)の九州征服の功で肥後一国54万石を与えられたが、早急に太閤検地を行おうとしたために反発する国人が一斉隆起し、これを鎮圧できなかった。肥後国人の一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉された佐々成政が天正16年(1588年)5月14日尼崎の法園寺で切腹させられた。

貴布禰神社      ▼北浜であい橋

 

北堀水門

 

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佐々成政 (1536年~1588年)

 尾張比良城主として織田信長に仕え、天正3年(1575年)9月前田利家・不破光治とともに、相給知行で越前府中に置かれ、柴田勝家の目付を命じられた。目付といっても軍事組織上は柴田勝家に属し、主に北陸で活躍している。天正9年2月、越中一国を与えられ、富山城主。本能寺の変後は賤け岳の戦・小牧の戦と一貫して豊臣秀吉に対抗したが、天正13年8月、攻められてついに降伏する。天正15年(1587年)の九州征服の功で、肥後一国54万石を与えられたが、肥後国人一揆の責任で豊臣秀吉に幽閉され、天正16年(1588年)5月14日に摂津尼崎の法園寺で切腹させられた。



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