山崎城は、京都府乙訓郡大山崎町字大山崎の天王山にあった山城。天王山は、標高270.4mの低い山ながら摂津国と山城国を分ける位置にあり古来より交通、軍事軍事の上から重要視され、特に応仁・文明の乱の時には、戦がしばしばあり、山上に城も築城されました。さらに天王山の名を世に知らしめたのは、天正10年(1582年)の羽柴秀吉軍と明智光秀軍の山崎の合戦であります。この合戦によって勝利をおさめた豊臣秀吉は、天王山に築城し山麓にある宝積寺も含めて城郭とし、大山崎を城下町にしました。しかし天正11年(1583年)4月の柴田勝家との賤ケ岳の戦に勝利後、大阪城築城を開始し、大阪築城が本格化すると、天正12年(1584年)4月に山崎城は破却された。今も山中には門跡、堀跡、土塁跡、井戸跡石垣の跡等がいたるところに見られます。
[所在地:京都府乙訓郡大山崎町字大山崎]
<アクセス>JR京都線・山崎駅から徒歩で約30分
▼山崎城の概要
▼天王山山頂(標高270.4m)▼山崎城主郭跡
▼山崎城概略図
▼井戸跡 ▼曲輪跡
2014/03/09 訪城
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山崎の合戦 天正10年(1582年)6月13日夕刻
本能寺変後、明智光秀16000騎と羽柴秀吉・織田信孝軍40000騎とが山城・摂津両国国境の山崎で行った合戦。明智軍が敗れ、光秀は、一旦は、勝龍寺城に逃れたが、ここも包囲されそうになると、光秀は再起を図るべく近江坂本城へ逃れる途中、土民の落ち武者狩りに襲われ、自刃して果てた。織田軍団で光秀の与力で姻戚関係になる丹後宮津の細川藤孝・忠興父子や筒井順慶に来属を拒否されたため、光秀の集めた兵力は少なかった。「明智光秀の三日天下」と称されるが、実際は11日間の天下人であった。