赤旗日刊紙2011年7月26・27日
財界の野望③
毒をもって毒を制す
1956年3月1日に発足した日本原子力産業会議(原産、現在は日本原子力産業協会)の事業はどのようなものでしょうか。
政府に『建議』
原産の定款には、事業の具体的な内容として8項目が掲げられています。原子力の開発および利用に関する調査研究などのほかに、「原子力の開発および利用に関し、政府に対する建議および意見の発表」と明記されています。原産は、当初から積極的に原子力政策の推進を政府に対して求める組織として発足したのです。
この定款策定にあたったのは、経団連の堀越禎三事務局長、電気事業連合会の松根宗一常務理事、日本商工会議所の岡松成太郎専務理事、そして日本原子力平和利用調査会の橋本清之助理事でした。橋本氏はその後、原産の常任理事になります。原産の定款は財界代表が直接、原案を考え作成したのです。
原産は、同年の3月27日に第1回理事会を開きます。そこで理事26人を増員し、発足時の理事と合わせて46人の理事が誕生します。
原産の会長は、東京電力会長の菅礼之助氏。菅氏は、電気事業連合会の会長でもありました。副会長には経団連副会長の植村甲午郎氏や、大阪商工会議所会頭の杉道助氏の名前が並びます。
そして理事には、日本商工会議所、経済同友会という財界の代表とともに、東京電力、中部電力、関西電力から電力会社代表が就任しています。また、石油連盟、日本鉄鋼連盟、日本造船工業会など財界・産業界の首脳たちが名を連ねています。さらに、参与や各種委員会の委員には、東京大学の教授たちや、『朝日』『日経』の論説委員、『毎日』の社会部副部長などマスメディア関係者も就任しました。原産は財界、学界、マスメディアの要人を擁し、原発推進へ動き出しました。
反原爆の世論
原産の発足にあたり、財界・産業界の大立者たちが名を連ねたことを「電力・産業界代表が綺羅星(きらぼし)のごとく居並び」と評したのは柴田秀利氏でした。柴田氏は、読売新聞記者でNHK解説者や日本テレビ専務の肩書きを持ち、正力松太郎氏の片腕として活躍。また柴田氏は、米中央情報局(CIA)とのつながりを指摘された人物です。
広島、長崎への原爆投下に続く1954年の第五福竜丸事件で、当時、日本国内では、反原爆の世論が盛り上がっていました。そのとき、柴田氏は日本に原子力を導入する影の主役でした。自身の回想録(『戦後マスコミ回遊記』)の中で柴田氏は次のように記しています。
「日本には昔から、”毒は毒をもって制する”という諺(ことわざ)がある。原子力は双(もろ)刃の剣だ。原爆反対を潰(つぶ)すには、原子力の平和利用を大々的に謳(うた)い上げ、それによって、偉大な産業革命の明日に希望を与える他はない」。柴田氏は、日本テレビの肩書で原産の参与に就任。その後、【原子力の平和利用】を口実とした原発推進キャンペーンが日本全国で繰り広げられます。
原産の発足を提言したのは正力氏でした。正力氏に原産の創設をすすめたのが、実は、この柴田氏でした。
「強力な民間組織による原子力産業会議を、早急に結成、発足させる必要のあることを、正力に進言した」。柴田氏は回想録に記しています。
財界の野望④
国家あげた産業育成
「原子爆弾を受けた日本でさえ、原子力の平和利用というものがいかにわれわれの血をわかしてくれたか、いまさらのように思い出される」
1999年6月2日、戦後9回目となる原子力長期経計画の策定会議の第1回会合。座長役を務めた東京電力の那須翔会長(当時)は、こう指摘しました。原子力を推進するための国家計画である原子力長期計画は、1956年からおおむね5年おきに策定され、2000年の9回目でその役割を終えて、原子力政策第1回目の原子力長期計画(56年9月6日)では、『開発の目標』について、「わが国のエネルギー需給の問題を解決するのみでなく産業の急速な進展を可能」にすると強調しました。そして、「基礎研究に力を注ぐとともに、関連技術を育成し、原子力工業の基盤の確立に努める」と、原子力産業の育成に国家をあげて取り組むことを宣言。【原発利益共同体】は、国家の保護の下で巨大化していったのです。
考えられない
3回目となる67年4月策定の原子力長期計画では、「わが国の原子力産業は、軍需などを背景にぼう大な研究開発を実施し、原子力発電所の建設等について、多くの経験を有している欧米の原子力産業に比べると、いまだその産業基盤は弱体である」と指摘。軍産複合体で原発を推進している欧米をうらやましがってさえいました。
「大量の放射性物質を取り扱う原子力施設は、厳重な法的規制のもとにあって、その周辺環境の安全確保については万全が期せられているので、万一施設に事故が発生したとしても、周辺の公衆に災害が及ぶことはまず考えられない」 それから44年後、「まず考えられない」ことが、東京電力の福島第1原子力発電所で、実際に起きてしまいました。安全を無視したもうけ第一のつけは、あまりにも巨大です。
原発コースへ
61年に東電社長となった木川田一隆氏は、70年に執筆した『私の履歴書』において「最近の世界におけるエネルギー革命は、大火力時代から原子力時代へと移行している」として、東電としても「将来に支障のないよう、電源や流通部門の拡充に画期的な計画を進めている」と強調しています。 東電は、米国のゼネラルエレクトリック社の原子炉を購入。一方、関西電力は、ウェスチングハウス社の原子炉を購入するという形で、二つの電力会社は、競争関係にありました。
「この二つの性急な『威信』がらみの発注が、日本の電力業界を引き返すことのできない原子力開発コースへ踏む出させた」
海外のジャーナリストと法律家によって執筆された著書『核の栄光と挫折』には、こう記されました。
(つづく)
財界の野望③
毒をもって毒を制す
1956年3月1日に発足した日本原子力産業会議(原産、現在は日本原子力産業協会)の事業はどのようなものでしょうか。
政府に『建議』
原産の定款には、事業の具体的な内容として8項目が掲げられています。原子力の開発および利用に関する調査研究などのほかに、「原子力の開発および利用に関し、政府に対する建議および意見の発表」と明記されています。原産は、当初から積極的に原子力政策の推進を政府に対して求める組織として発足したのです。
この定款策定にあたったのは、経団連の堀越禎三事務局長、電気事業連合会の松根宗一常務理事、日本商工会議所の岡松成太郎専務理事、そして日本原子力平和利用調査会の橋本清之助理事でした。橋本氏はその後、原産の常任理事になります。原産の定款は財界代表が直接、原案を考え作成したのです。
原産は、同年の3月27日に第1回理事会を開きます。そこで理事26人を増員し、発足時の理事と合わせて46人の理事が誕生します。
原産の会長は、東京電力会長の菅礼之助氏。菅氏は、電気事業連合会の会長でもありました。副会長には経団連副会長の植村甲午郎氏や、大阪商工会議所会頭の杉道助氏の名前が並びます。
そして理事には、日本商工会議所、経済同友会という財界の代表とともに、東京電力、中部電力、関西電力から電力会社代表が就任しています。また、石油連盟、日本鉄鋼連盟、日本造船工業会など財界・産業界の首脳たちが名を連ねています。さらに、参与や各種委員会の委員には、東京大学の教授たちや、『朝日』『日経』の論説委員、『毎日』の社会部副部長などマスメディア関係者も就任しました。原産は財界、学界、マスメディアの要人を擁し、原発推進へ動き出しました。
反原爆の世論
原産の発足にあたり、財界・産業界の大立者たちが名を連ねたことを「電力・産業界代表が綺羅星(きらぼし)のごとく居並び」と評したのは柴田秀利氏でした。柴田氏は、読売新聞記者でNHK解説者や日本テレビ専務の肩書きを持ち、正力松太郎氏の片腕として活躍。また柴田氏は、米中央情報局(CIA)とのつながりを指摘された人物です。
広島、長崎への原爆投下に続く1954年の第五福竜丸事件で、当時、日本国内では、反原爆の世論が盛り上がっていました。そのとき、柴田氏は日本に原子力を導入する影の主役でした。自身の回想録(『戦後マスコミ回遊記』)の中で柴田氏は次のように記しています。
「日本には昔から、”毒は毒をもって制する”という諺(ことわざ)がある。原子力は双(もろ)刃の剣だ。原爆反対を潰(つぶ)すには、原子力の平和利用を大々的に謳(うた)い上げ、それによって、偉大な産業革命の明日に希望を与える他はない」。柴田氏は、日本テレビの肩書で原産の参与に就任。その後、【原子力の平和利用】を口実とした原発推進キャンペーンが日本全国で繰り広げられます。
原産の発足を提言したのは正力氏でした。正力氏に原産の創設をすすめたのが、実は、この柴田氏でした。
「強力な民間組織による原子力産業会議を、早急に結成、発足させる必要のあることを、正力に進言した」。柴田氏は回想録に記しています。
財界の野望④
国家あげた産業育成
「原子爆弾を受けた日本でさえ、原子力の平和利用というものがいかにわれわれの血をわかしてくれたか、いまさらのように思い出される」
1999年6月2日、戦後9回目となる原子力長期経計画の策定会議の第1回会合。座長役を務めた東京電力の那須翔会長(当時)は、こう指摘しました。原子力を推進するための国家計画である原子力長期計画は、1956年からおおむね5年おきに策定され、2000年の9回目でその役割を終えて、原子力政策第1回目の原子力長期計画(56年9月6日)では、『開発の目標』について、「わが国のエネルギー需給の問題を解決するのみでなく産業の急速な進展を可能」にすると強調しました。そして、「基礎研究に力を注ぐとともに、関連技術を育成し、原子力工業の基盤の確立に努める」と、原子力産業の育成に国家をあげて取り組むことを宣言。【原発利益共同体】は、国家の保護の下で巨大化していったのです。
考えられない
3回目となる67年4月策定の原子力長期計画では、「わが国の原子力産業は、軍需などを背景にぼう大な研究開発を実施し、原子力発電所の建設等について、多くの経験を有している欧米の原子力産業に比べると、いまだその産業基盤は弱体である」と指摘。軍産複合体で原発を推進している欧米をうらやましがってさえいました。
「大量の放射性物質を取り扱う原子力施設は、厳重な法的規制のもとにあって、その周辺環境の安全確保については万全が期せられているので、万一施設に事故が発生したとしても、周辺の公衆に災害が及ぶことはまず考えられない」 それから44年後、「まず考えられない」ことが、東京電力の福島第1原子力発電所で、実際に起きてしまいました。安全を無視したもうけ第一のつけは、あまりにも巨大です。
原発コースへ
61年に東電社長となった木川田一隆氏は、70年に執筆した『私の履歴書』において「最近の世界におけるエネルギー革命は、大火力時代から原子力時代へと移行している」として、東電としても「将来に支障のないよう、電源や流通部門の拡充に画期的な計画を進めている」と強調しています。 東電は、米国のゼネラルエレクトリック社の原子炉を購入。一方、関西電力は、ウェスチングハウス社の原子炉を購入するという形で、二つの電力会社は、競争関係にありました。
「この二つの性急な『威信』がらみの発注が、日本の電力業界を引き返すことのできない原子力開発コースへ踏む出させた」
海外のジャーナリストと法律家によって執筆された著書『核の栄光と挫折』には、こう記されました。
(つづく)