日本の原発推進政策は1955年、自民党と日本社会党(現社民党)との協調で立ち上げられました。56年後の2011年、民主党と自民党の二大政党体制化で東京電力福島原子力発電所の重大事故が起き、その政策は破綻しました。
新旧二大政党政治と原発政策とのかかわりを振り返ってみました。
『共産党排除』で始まった
財界と自社両党がタッグ
原子力の研究、開発及び利用の促進について定める原子力基本法は1955年12月の第23回臨時国会で成立しました。衆院2日、参院2日のわずか4日間のスピード審議でした。
法案は中曽根康弘議員ほか421人による議員提案でした。自民、社会両党の衆院議員全員が法案提出者に名前をそろえました。
法案提出に先立って自民党、社会党は非公式の『原子力合同委員会』で法案内容を煮詰めていました。法案提出の20日前には経団連と打ち合わせ会議を開き、財界側の了承を取り付けました。
合同委員会側は経団連側にたいし、原子力基本法に基づく原子力の研究・開発・利用にあたっては「共産党を除いた超党派勢力を結集してこれを民主的に推進することを目的とした」(『経団連十年史(下)』1963年) と説明していました。原発推進勢力は、そのスタートから、二大政党体制と日本共産党排除の【原則】に立っていたのです。
『55年体制』の゛初子"
原子力基本法案審議の衆院科学技術振興対策特別委(1955年12月13日)の冒頭、中曽根議員は「(自民、社会)両党の共同作業によって、全議員の名前をもって国民の前に提出した」と述べたうえで、超党派提案の形をとった理由を付け加えました。
「国民の相当数が、日本の原子力政策の推進を冷ややかな目で見るということは悲しむべきことであり、絶対に避けなければならない」
広島、長崎、第五福竜丸事件という三たびの放射能被害を体験した日本国民が抱く核エネルギーへの安全性への危惧を考慮せざるを得なかったということでしょう。
もろ手上げ
社会党の岡良一議員は「わが党はもろ手をあげて賛成いたします」と手放しで賛意を表明していました。
原子力基本法に当時、衆議院で院内共同会派を組む日本共産党と労農党は反対しました。
一連の原子力関連立法の中核となる原子力基本法が成立したのは、保守合同による自由民主党結党(55年11月15日)から32日目、左右統一による日本社会党発足(同10月13日)から64日目のことでした。自民党は、結党時の『党の綱領』で『原子力の平和利用』に対応する推進方針を決めていました。
社会党はこの後、57年に『原子力平和利用に関する方針』を示し、原子力開発の積極方針を掲げました。80年、公明党との「連合政権についての合意」(社公合意)でも、原発建設を容認する方向を確認しています。
「原子力政策に関する限り、この(自社)両党の協力がなかったらば、いまよりはるかに遅れていたであろう」(社会党の後藤茂元衆議院議員『EITジャーナル』2008年7月号)との原子力政策にかかわった社会党関係者の述懐があります。
米国の要請
自社二大政党体制は、当時の財界、アメリカの強い要請でした。1955年11月の経済同友会全国大会で岸道三代表幹事は「(自社)両陣営が右と左とから歩み寄ることが肝要」と政策面で自社両党のより広い協調を求めました。
原発推進の【憲法】ともいえる原子力基本法は、自社二大政党政治が産んだ『初産の子』ともいえます。
推進の“かじ切り役”は民主
経団連との『語る会』が弾みに
民主、自民両党の二大政党づくりの過程で、原発積極推進の方向へ原子力政策のかじを切ったのは民主党側でした。
変更の内幕
民主党原発政策を転換した主役は、現在、党原子力政策・立地政策プロジェクトチーム会長ポストにある川端達夫元文部科学相です。川端氏自身が政策変更の内幕を明かしています。
「3年かけて『過渡的エネルギー』という言葉を消しました。原子力を日本の基幹エネルギーとして位置づけ、最終処理まで国の責任で行うということを書き込みました」(『改革者』2011年1月号のインタビュー)
民主党は、1998年の結党以来、エネルギー政策で原子力について『過渡的エネルギー』と位置づけました。『市民が主役』をキャッチフレーズにした旧民主党結党時(96年10月)の『基本理念と基本政策』を引き継いでいました。原発を「進めるが慎重に」という姿勢でした。
06年9月に党エネルギー政策調査会長に就任した川端氏は、『過渡的エネルギー』という言葉を抹消し、『基幹エネルギー』の言葉に置き換える一方、使用済み核燃料などの最終処理責任を国に委ねるとするなど電力業界寄りに修正して、09年総選挙の政権公約(マニフェストと付則文書の政策集『INDEX2009』に盛り込みました。
政策変更の狙いについて川端氏は二大政党づくりの一環と説明します。
「防衛と食料とエネルギーの安全保障に関しては政権が交代しても微動だにしないという根幹を持っていなければならない」(前出インタビュー)
政策見直し
民主党が原発積極推進路線へ向けて政策転換に着手したのは小沢一郎代表時代の06年4月以降のこと。小沢氏の代表就任とほぼ同時に党内にエネルギー戦略委員会(大畠章宏座長)が立ち上げられ、政策の見直し作業を開始しました。
弾みがついたのは1ヵ月後の同年5月22日に開かれた日本経団連主催の「民主党の政策を語る会」でした。席上、日本経団連から民主党の原発政策に厳しい注文が付きました。「原子力の活用は環境とエネルギーの両面から国策として推進すべきだ」。切り込んだ発言者は勝俣恒久・日本経団連副会長(東京電力社長=現会長)でした。
直嶋正行政調会長代理は「原子力を活用しなければ、日本のエネルギー供給はおぼつかない」と、日本経団連側の意をくむ答弁で応じました。
同年9月に民主党エネルギー戦略委員会がまとめた『日本国のエネルギー戦略(案)』(中間とりまとめ)。ここで原子力について、「基幹エネルギーであり」「欠かせない存在である」と位置づけて、「核燃料サイクル政策の完成へ向けた取り組みを進める」などとする原発積極推進の方向が打ち出されました。以後、民主党の政権公約で『過渡的エネルギー』の言葉は用いられなくなりました。
エネルギー戦略委員会を引き継ぐ形で09年9月に発足したエネルギー政策調査会(川端達夫会長)が『中間とりまとめ』を引き取って議論を継続。原発積極推進政策への転換を仕上げました。
川端氏は冒頭の雑誌インタビューで「政権交代してマニフェストを含めていろいろ言われていますが、原子力発電に関して何にも言われていません」と述べています。
同じ土俵に 野党・自民党は民主党の子ども手当て、高速道路無料化など民主党のマニフェストに激しい批判と攻撃を加えながらも、こと原子力政策にかんしては自民党と同じ土俵に乗せたので矛先を向けてこないというわけです。
(おわり)