泊原発でも「やらせ」
99年北海道電が賛成意見支持 共産党追及 赤旗日刊紙2011年8月18日(木)
高橋はるみ北海道知事が17日、営業運転の再開を容認した北海道電力の泊原発3号機の建設については、1999年10月、道が行った同原発に関する意見募集で「賛成」意見を出すよう、北電が社員を通じて働きかける「やらせ」を行っていたことが判明しています。
北電は当時、建設の是非をめぐる道の意見公募や「意見を聴く会」に対し、社員に「賛成」意見を集中するよう極秘文書で指示していたものです。
「厳秘」と書かれた指示文書には、「社内からの発信は行わない」と注意書きがあり、「主婦の立場から原子力は必要だと考えています」などの雛型も準備されていました。
道議会予算特別委員会でこの問題を追及した日本共産党の大橋晃議員(当時)に対し、堀達也知事(当時)は「意見を聴く会」の延期を表明。北電社長が陳謝しました。
1999年11月10日の衆議院科学技術委員会では、日本共産党の吉井英勝議員の質問に対し、資源エネルギー庁長官が「北電社長も行き過ぎを認めており、今後は起こらないと思う」などと答弁していました。(後略)
核爆弾工場裁判 あきらめない
原水爆禁止世界大会 海外代表に聞く アメリカ トム・ベイリーさん(65歳) 同日7面より
前陸前高田市長 中里長門(ながと)さん死去 同日 一部省略
16日、病気のため亡くなりました。64歳。1987年から日本共産党の市議を4期務め、2003年、広範な市民が参加する「新しい陸前高田市を作る市民の声」から市長選に無所属で立候補し、現職を破って初当選。県内初の党員首長になり、07年に再選を果たしました。
(中略)10年10月、体調不良を理由に市長勇退を表明。11年2月の市長選では戸羽太副市長(46)の当選に尽力。
3月の東日本大震災では、党と「市民の声」の協同の救援活動に携わりました。
99年北海道電が賛成意見支持 共産党追及 赤旗日刊紙2011年8月18日(木)
高橋はるみ北海道知事が17日、営業運転の再開を容認した北海道電力の泊原発3号機の建設については、1999年10月、道が行った同原発に関する意見募集で「賛成」意見を出すよう、北電が社員を通じて働きかける「やらせ」を行っていたことが判明しています。
北電は当時、建設の是非をめぐる道の意見公募や「意見を聴く会」に対し、社員に「賛成」意見を集中するよう極秘文書で指示していたものです。
「厳秘」と書かれた指示文書には、「社内からの発信は行わない」と注意書きがあり、「主婦の立場から原子力は必要だと考えています」などの雛型も準備されていました。
道議会予算特別委員会でこの問題を追及した日本共産党の大橋晃議員(当時)に対し、堀達也知事(当時)は「意見を聴く会」の延期を表明。北電社長が陳謝しました。
1999年11月10日の衆議院科学技術委員会では、日本共産党の吉井英勝議員の質問に対し、資源エネルギー庁長官が「北電社長も行き過ぎを認めており、今後は起こらないと思う」などと答弁していました。(後略)
核爆弾工場裁判 あきらめない
原水爆禁止世界大会 海外代表に聞く アメリカ トム・ベイリーさん(65歳) 同日7面より
(前略)私はワシントン州ハンフォードにある核爆弾工場の風下で生まれ育ちました。長崎に投下された原爆のプルトニウムを生産した工場です。
政府は、爆弾工場を立てる際に、「食料も水も安全だ。危険があれば知らせる」と住民に伝えました。
しかし、私は小学校に上がる前の頃、脚が動かなくなってしまったのです。祖父に病院に連れて行かれ、5カ月間、子どもの隔離病棟に入れられました。夜になると、夜勤の医師が毎晩、私の様子を見に来ました。彼らは、あごの下あたりを触診し、カルテに何か書き込んでいました。
結局、私は病棟から出てリハビリをするようになりましたが、小学校1年生になった時、医師たちが政府のトラックで私の小学校までやってきました。彼らは、小学生を1列に並ばせ、首の辺りを触診し、ミルク便に尿をさせました。そして大きな機械の下に横たわらせました。その機械は、全身の放射線量を測る機械でした。
私は、ハンフォードの家族や周辺住民にがんや先天性奇形が見られるため、1984年に政府に真相解明を要求し、その後訴訟を起こしました。
これに対し、政府は、それまで秘密にしていた文書を公開しました。それによると、政府は爆弾工場ががんや奇形を発生させることを最初から知っていたのです。政府は、私たちをモルモットのように扱ったのです。
裁判は続いています。しかし政府は訴訟を起こした被害者が高齢やがんで全員亡くなるまで裁判を引き伸ばそうとしています。
核兵器の廃絶は、強大な体制を相手にした困難な闘いです。しかし私は悪夢を引き起こした者に責任を取らせたいし、あきらめずに闘い続けたい。なぜなら私たちは正しい主張を掲げているからです。
政府は、爆弾工場を立てる際に、「食料も水も安全だ。危険があれば知らせる」と住民に伝えました。
しかし、私は小学校に上がる前の頃、脚が動かなくなってしまったのです。祖父に病院に連れて行かれ、5カ月間、子どもの隔離病棟に入れられました。夜になると、夜勤の医師が毎晩、私の様子を見に来ました。彼らは、あごの下あたりを触診し、カルテに何か書き込んでいました。
結局、私は病棟から出てリハビリをするようになりましたが、小学校1年生になった時、医師たちが政府のトラックで私の小学校までやってきました。彼らは、小学生を1列に並ばせ、首の辺りを触診し、ミルク便に尿をさせました。そして大きな機械の下に横たわらせました。その機械は、全身の放射線量を測る機械でした。
私は、ハンフォードの家族や周辺住民にがんや先天性奇形が見られるため、1984年に政府に真相解明を要求し、その後訴訟を起こしました。
これに対し、政府は、それまで秘密にしていた文書を公開しました。それによると、政府は爆弾工場ががんや奇形を発生させることを最初から知っていたのです。政府は、私たちをモルモットのように扱ったのです。
裁判は続いています。しかし政府は訴訟を起こした被害者が高齢やがんで全員亡くなるまで裁判を引き伸ばそうとしています。
核兵器の廃絶は、強大な体制を相手にした困難な闘いです。しかし私は悪夢を引き起こした者に責任を取らせたいし、あきらめずに闘い続けたい。なぜなら私たちは正しい主張を掲げているからです。
前陸前高田市長 中里長門(ながと)さん死去 同日 一部省略
16日、病気のため亡くなりました。64歳。1987年から日本共産党の市議を4期務め、2003年、広範な市民が参加する「新しい陸前高田市を作る市民の声」から市長選に無所属で立候補し、現職を破って初当選。県内初の党員首長になり、07年に再選を果たしました。
(中略)10年10月、体調不良を理由に市長勇退を表明。11年2月の市長選では戸羽太副市長(46)の当選に尽力。
3月の東日本大震災では、党と「市民の声」の協同の救援活動に携わりました。