日の本の下で  究極の一点 Ⓢ への縦の道

『究極の一点』Ⓢ 
神のエネルギーの実在を『フライウェイ』の体験を通して知り、
伝えるデンパ(伝波)者

『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  ③

2018年01月15日 | 『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験

大病院の予約時間ほど当てにならないものはない。

 

大きなショッピングセンターの吹き抜けのようなロビーは

照明が高いせいか薄暗く、突き当りのガラス窓に映る日暮れの紅色が

より一層に鮮やかに見えた。

 

予約の時間が3時間ほど過ぎても呼び出し機は何も変化はなかった。

ボタンを押すと受付終了の文字が出るだけで、壊れているのではと疑いたくなった。

 

私は血液と尿検査を終わったら、すっかりさっきのカタカナの事を忘れていた。

しかし予約時間から3時間以上が過ぎロビーで待っている人が減ってきているのをみて

何か急に心配になり本当に受付が済んでいるかどうを膠原病科の受付に確かめに向かった。

 

受付は閑散としていたが私の受付をした中年の女性の職員がいたので

受付が確実に済んだのかを聞いてみた。

すると彼女は受付はすんでいるが、タッチパネルが済んでいないと言った。

よく見ると受付の端に液晶パネルが二つあり、

簡単な問診を手でタッチして応答するようであった。

 

最初の受付でのカタカナ言葉はタッチパネルの案内であったらしかったが、

私にはそれが何を指しているの聞き取れなかったのだった。

 

延々と待たされて苛ついていた私は

思わず「初診の患者に冷たい病院ですね。」と本音を言った。

 

職員の女性は表情の乏しい顔から思いきりムッとした顔になった後

怒りで言葉が出ないのかクレームに付き合う気はないのか目をそらし黙っていた。

私はそのままタッチパネルに進んで、10項目ほどの簡単な設問に答えてロビーに戻った。

それから30分ほどしてようやく呼び出し機がメロディーを奏で

膠原病科のフロアーにて待機するように告げた。

 

待合のフロアーに入ると同じように待ち疲れた常連らしい患者さんたちの話が聞こえてきた。

それによると膠原病科の待ち時間3時間は毎度の事のようであった。

それならなんの為の予約時間なのかと改めて思ったが、

その事を知らない初診の患者はタッチパネルの簡単な10問ほどの問診と検査の後

なんの連絡もコミュニケーションもない状態で3時間は放置されるのが

当たり前だという事だった。

 

これが西東京で一番大きな総合病院かと思うと

『医は仁術』という言葉やホスピタリティはこの病院には残念ながらないように思えた。

 

待合フロアーに入って一時間また経ち、ようやく診察室に入るようにと

呼び出し機が鳴った。

 

担当は女医さんであった。

診察室のドアに名札が掛けて有り分かってはいたが

対面して見ると予想以上に若く

見ようによっては高校生に見える小柄で容姿どうりの幼さの残る声だった。

私は大人気ないと思いながらも、病気の説明の前に

この病院の初診患者への冷たさをもう一度先生に告げた。

先生はちょっと困ったような顔をしたが、とりたてて弁明するでもなく

だた話を聞いてくれ、「事実を事務方に伝えておきます。」と

外見の印象とは違って簡潔に力強くおっしゃった。

 

一通りの問診の後、検査結果と症状から言えることは

膠原病の一種の自己免疫疾患に似ているという事であった。

ただ、癌に罹っている場合でも似たような症状が出るので今の段階では

どちらとも言えないという事であった。

そしてしばらくパソコンのディスプレイを見つめながら考えたのち

PHSを取り出して相手に症状の説明をはじめた。

 

先生はひとしきり話た後PHSを切ると

「自分だけでなく指導医にも診てもらいたいのですが良ろしいですか?」と聞いた。

断る理由もないので了承すると

程なくして溌剌とした体育会系の感じのする中年の女医さんが現れた。

 

指導医の先生は椅子での触診の後ベッドで筋肉や関節の痛みや稼働域を細かく調べた。

そして、手や顔や耳にも触って腫れ具合を調べ、

若い担当医に私が聞いたことのない病名の説明をした。

その病名を聞いて担当医はテンションがいかにも上がった様子で

「私も耳を触っても良いですか?」と言った。

 

担当医は確かめるように左耳を触って、右耳は指導医の先生が触りながらその

聞き覚えのない病気の事を説明していた。

 

私は自分がもしかしたら癌かもしれず、

また癌でなかったとしても自己免疫疾患が根本の治療法がない事は知っていたので

診断を聞いた直後は不安だった。

が傍らで二人の女医さんがなにやら楽しそうに両耳を触って話をしているのを聞いていると

受付での不快な思いも病気の不安も何か馬鹿らしくなって

お腹の底の方から何か笑いがこみ上げてきたのだった。

 

                                 ④に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患という経験  ②

2018年01月15日 | 『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験

病院の景観は大手デベロッパーが開発したゴージャスなマンションのようであった。

 

そこは大きな病院の中でもとりわけシステマティックな感じがした。

受付案内の窓口で初診の総合受付を指示されそこに向かった。

 

初診の窓口では70代くらいの年配の女性が

首から赤い紐でつるしたガラケーのような呼び出し機をつるし

手が不自由なのだろう書類の挟まったクリアファイルを口に咥えながら

足を引きずって次の受付に向かおうとしていた。

 

大病院なので多くの職員が忙しそうに台車を運んでいたり、

パジャマ姿の患者さんが点滴のスタンドを押しながら歩いていたりしていたが

さすがにその年配の婦人の姿は異様に見え

誰か手伝う人はいないのか見渡してしまった。

 

そういう私自身は、一度腰かけると腕の支えがないと直ぐには立ち上がれないほど

関節と筋肉に力が入らなくなっていて、

バスや電車の乗り降りには老人と同じくらい時間がかかるようになっていた。

痛みに始終さらされ素早く動けず人並みの力が出ない状態では

年配の婦人の後ろ姿を見送る事しか出来なかった。

 

私はボールペンをしっかり握ることもままならなくなり

長い時間をかけて記入した書類と交換にクリアファイルと呼び出し機をもらい

次の膠原病科の受付に向かった。

 

そこでもまた行列にならび、ようやく順番になると受付の女性に

前の人と同じセリフを繰り返し言われた。

一日に何回も同じ事を言うのだろうが、感情のこもっていない声で

聞き取りにくいカタカナの言葉と血液と尿検査を指示された。

 

私はさっきの年配の婦人の姿や自身の疲れも相まって

よく聞こえなかったカタカナの言葉の確認を取る気になれず

聞き取れた血液と尿検査をしにそこを離れた。

 

院内を歩きながら自分が通信販売の荷物になって

ベルトコンベヤーを流れてゆくような気分になって検査所に向かった。

 

検査を待っている間、

病院によってホスピタリティがこうも違うのかとしみじみ思った。

 

前の病院は大学病院であったが、医師の診断の前に担当看護師による

微細な聞き取りがあり

検査も私が一人で立ち上がるのや着替えに苦労するのを聞くと

介助者と車いすを手配するか聞かれた。

 

私はまだ介助される事に慣れていないのと、足を引きずるが歩く事はできるので

有難いがその時は断る事にした。

 

初診受付の年配女性への対応や膠原病科の受付の自動音声のような様子をみると

この病院は見栄えは素晴らしいがホスピタリティは期待できないなと

最初から暗い気持ちになった。

 

 

                               ③へ続く

 

 


『ヘブンリー ブルー』 自己免疫疾患 という経験 ①   プロローグ

2018年01月15日 | 『ヘブンリーブルー』自己免疫疾患という経験

一昨年の9月に原因不明の病に罹り病院を渡り歩いた。

 

症状から痛風だと思い込み

若い頃から続けているマニアックな健康法を

強化すれば治ると高を括っていたが

一向に良くならないどころか症状はどんどん悪化していった。

 

四肢の関節の痛みや両手両足の浮腫みなどで歩く事や立ち上がるなど

日常動作がどんどん困難になった。

病名をはっきりさせる為にかかりつけの医者にゆくと

血液検査の結果から、これは痛風ではなくもっと厄介な膠原病的な病気の可能性があるから

大学病院で診てもらいなさいと言われた。

 

紹介された大学病院でのいろいろな検査の結果も

痛みの原因は膠原病系の自己免疫疾患の可能性が高いから

その専門病院に行きなさいと言いうもので

東京の西部で一番大きく膠原病科の専門医のいる病院を紹介された。

 

私は高一の時、体育の授業での怪我を発端とした片頭痛に苦しめられた

その時も色々検査したが、はっきりとした原因を突き止める事は出来なかった。

検査を終え下された診断は自律神経失調症であった

 

田舎の40年前の事だからそれが当たり前だったのだろうが

治療らしい事は何ひとつされず

検査で疲れ切り、私の片頭痛は改善するどころかどんどん酷くなっていった。

 

検査入院を終え2週間が経つ頃には私は床から起き上がれなくなり

頭痛の為か幻聴らしきものも聞こえ始めた。

やがて天井の隅から何かに呼びかけられているような気がして

頭痛のない時はそこをぼんやりと見つめるようになっていった。

 

それから数か月の間は断片的な記憶しかなく

外界の全ての音がとても遠くから聞こえ

光のコントラストのない灰色の世界を彷徨っているようであった。

 

両親は瞬くまに廃人のようになってしまった息子に

為すすべもなく

私を精神病院に入院させる事を考えているようであった。

 

しかし私はある事をきっかけにして

かろうじてその灰色の世界から戻る事が出来た

そしてそれ以後は西洋医学をあまり信用しない大人なっていった。

 

成長してからも外傷や内臓疾患といろいろと酷い痛みを伴う病を経験したが

ある民間療法と出会い肉体の痛みが劇的に解消された事がきっかけで

私の西洋医学不信は確固たるものになった。

 

そして今回も自身が20年以上続けてきた民間療法で必ず治してみせると実行し続けていたが

浮腫みや痛みの改善が一切なく逆に悪化している状況であったので

自身の信念に白旗を揚げて病院に行ったのだった。

                                 ②に続く