私は健康優良児だった兄と違い、
扁桃腺肥大、小児喘息、アトピー性皮膚炎、ペニシリンアレルギーなど
幼少期とにかく手のかかる子供であった。
何かというと熱を出し、子供用の薬が効かないとかで
シロップではなく粉の苦い薬を飲まされながら
「あんたは病気の問屋だね。」 と寝床で母によく言われた。
しかし小学校に入り水泳をやるようになったのがきっかけだったのか
小児喘息はおさまってゆき、ガリガリではあったが
熱を出す事も少なくなり、三年生になる頃には
普通の田舎の子供の体力を持ち得ていた。
しかし十代半ばでの片頭痛から始まった肉体的、精神的混乱は
幼少期の自身の肉体を信じられない弱い自分を思い出させた。
そして片頭痛から立ち直り
その事を忘れかけていた十代の終わりのある朝
真っ赤なワインのようなオシッコが出た。
それは本当に鮮やかな赤で、腰が抜けるほどお驚いて病院に駆け込んだ。
腎臓結石であった。
年始の神社の神頼みレベルではなく
私が神という不確かな存在にかつてないほど真剣に祈った最初は
腎臓結石で床を転げまわる痛さに見舞われた時であった。
それは比喩ではなく本当に床を転げ回っていなければ
我慢できない激烈な痛みで、痛みが止まらぬなら
殺して欲しいと思えるほど経験した事のない激痛であった。
痛み止めなどは勿論効かず、腎臓結石との付き合い方をよく知らなかった私にとって
その痛みが地獄の罰のように思え、ただただ楽になりたくて
「神様 助けて下さい」と思わず声を出していた。
(当時携帯電話などない時代でもちろん固定電話などもっていなかった一人暮らしの私は
入院にかかるお金など想像もできず救急車を呼ぶ事は諦めた。)
私は痛みが我慢できず声を上げ「助けて下さい」と何度も声を出した。
無力さと情けなさから嗚咽と共に涙が鼻から喉に流れた。
典型的な困った時の神頼みであり、信仰に根差した深い祈りでも
他者の命の為の無私な祈りでもなんでもなく
自分ではどうしようも出来ない激痛から逃れたい一心であった。
「助けて下さい」を繰り返し、私はその長い夜をなんとかやり過ごした。
そして、無事朝を迎えられた時
生まれて初めて、どこにいるかわからない神様に素直に感謝をした。
後になって考えれば
子供の頃に強制的に新興宗教によって刷り込まれ大嫌いになった神事や祈りに
激痛を伴う病になった事で否が応でも再び向き合わされたのだった。
それからも肉体の痛みは私の信仰や神に対する姿勢を試すがのように
繰り返し形を変えて訪れた。
二十代の半ばに仕事で事故に合った。
結婚の為忙しくまた怪我に無知であった私は
事故の後無理をして働いた。
子供が出来、妻からの要望もあり家を空ける事が多いその仕事をやめ転職した。
しかし転職後その事故の後遺症が発症し、
仕事がらその症状と痛みは日に日に酷くなっていった。
そして三十を過ぎるともはや正常に仕事ができない状態になってしまった。
後遺症を治す為に完全に治るかわからない手術をするか、再び転職するか答えは二択だった。
そんな折たまたま実家に帰る用事があり
今は亡き兄に軽い気持ちで転職するつもりだと話をした。
すると兄は「子供もいるのにお前はまた仕事から逃げてどうするのだと」と
厳しく叱責した。
自分としては、痛みと向き合い折り合いをつけて仕事をし、限界までやったつもりであったが
兄の叱責で腹が決まって手術を受ける事にした。
執刀医は「元の体には戻れないが、後遺症は出ない体にはなれる」
と意味ありげは事を言った。
私はその言葉の真意を、手術後仕事をしながら痛みと向き合う事で思い知らされた。
手術後、あまり効かない痛み止めを毎日飲む生活が続いた。
寝ている時以外はその痛みから逃れられない日々だった。
強い痛み止めは半年ほど飲み続けるとほとんど効かないばかりか
内臓に大きく負担がかかるだけで、
私は体力の限界を感じはじめていた。
会社に残り仕事を続ける為に手術とリハビリをして
一から出直しの覚悟で仕事場に戻ったのだが、
痛みの前に膝を屈するギリギリの状態になっていた。
そんな時実家から本が届いた。
引退していた父は、趣味が読書と堂々と言えるほど家が本だらけの読書家で
自分が気に入った本を送ってくる人であった。
思春期に壊れてしまった父との関係は、私が思いの他早い結婚をし
孫も出来た事で世間的な大人の付き合いをする形に修復されていた。
私はいつもの父の勝手な送り物を仕方なく開けた。
予想通り中から一冊の本が出てきた
表紙には
『奇跡が起こる尿療法』 と書かれていた。
⑥に続く