三十才を過ぎて前の仕事の後遺症で悩んいた私は
当時自分の体の状態を知る為に病院めぐりをしていた。
その日の私は行った先の病院で麻酔かけて検査をした為
間抜けな話だが一時的に両手が使えなくなっていた。
両腕が麻痺し手がダランと垂れ下がった状態のままであったが
翌日が仕事でせっかちな私は
麻酔が解けるまで待つ事が出来ずに帰途についたのだった。
病院の会計はもちろん駅で切符を買う事も一人ではできず
通りががりの人に声をかけて手伝ってもらいながら
なんとか家に帰った。
電車で手すりに摑まる事もできず、
今日と同じようにドアに体を押し付けて揺れに耐えていた。
その事をデジャヴのように思い出して、やっている事が変わらない自分に
可笑しさとやりきれなさの混じった気持ちになった。
想えばあの後手術をして尿療法を知り、
スピリチュアルな世界を彷徨う事になったのだった。
ふとその感情の流れを切るように
「調子の悪い時こそ*****」という言葉が浮かんだ。
その頃は痛みで眠る事ができず座って夜を明かす日もあったが
時としてその座っている事さえ辛くなる時があり
そんな時は立って*****をするようになっていた。
「そうだ*****をしよう」と思い立ち
体をドアに押し付けながら*****をしてみた。
一瞬のようにも数分のようにも感じられる時間の後
瞼が自然と開いた。
病院でしたのと同じくらい出来た感覚が残り
体が軽くなった気がした。
駅に着き、人の流れのスピードに乗れなくなった私は
反対側の階段にあるエスカレーターーに向かった
健康な時は何とも思わなかった家路が千里の道に思えた。
大柄な成人男性として、当たり前と思っていた能力が
実は精密な体のシステムの上に成り立っていたという事実を
改めて思い知らされた。
四肢の自由が効かない大柄な体躯の持ち主を介護するのは
さぞ大変だろうとおぼつかない足元を気にしながら想像した。
団地の入り口で我が家に灯る明かりを見上げながら
決断の時が来たという鐘が静かに鳴っている気がした。
⑯に続く