三島由紀夫「サド侯爵夫人・わが友ヒットラー」を読む。それにしても、サドとヒットラーの組み合わせなんて、臆面もなくできるのは三島以外では考えられない。
おそらく観る劇というより、言葉を聴く劇だろう。詩的にデコライズされた台詞を読む劇。とりわけ「サド侯爵夫人」では、台詞を通じて、時にはいかがわしく猥褻に悪徳の数々が語られ、貴族社会の女たちの権謀術数、心理合戦が繰り広げられる。作者自身が舞台で女優たちにその猥雑な言葉を語らせること、美貌や美徳の奥から悪徳が露出する様に快感を覚えているにちがいない。
「サド侯爵夫人」は1789年のフランス革命をはさんだ1772年、1778年、1790年の18年間の物語を3幕構成で6人の女たちの会話によって描かれている。舞台は、サド侯爵夫人ルネの母モントルイユ夫人のパリの館。1幕目ではルネの妹アンヌの不貞が露呈し、2幕目ではルネの閨房での行状が暴かれ、3幕目ではイマジネーションによる現実の転倒が行われ、言葉の勝利が宣言されて幕を閉じる。落ちぶれてルネの元に帰ってきたアルフォンス・フランソワ・ド・サド侯爵を冷酷に「もう決しておめにかからない」と突き放すのは、サドが愛したのは現実のルネではなく後に「悪徳の栄え」として世に出ることになる小説の主人公、ルネをモデルとしたジュスティーヌであったこと、それはとりもなおさず言葉への敗北を認めたからだった。
一方の「わが友ヒットラー」は1934年のレーム事件を扱った3日間の物語を3幕で構成、舞台はベルリンの首相官邸。登場人物はヒットラー、レーム、シュトラッサー、クルップの4人。「サド侯爵夫人」が女の物語なら、こちらは男だけの舞台。健気なまでにヒットラーの友情を信じながらヒットラーの謀略によって虐殺されるレーム、一夜にして極右のレームと極左のシュトラッサーという同志を切り捨て、政治の中道という現実に突き進んだヒットラーが権力の頂点へとのぼりつめた一夜を描く。
3幕における資本家クルップとの立場の逆転を描いたくだりが見事だ。このレーム事件は、ヒットラーが限りなく男臭い義侠の集団突撃隊を切り捨て、国軍と手を握ることで権力を掌握する、ナチスのターニングポイントとなった事件だ。ルキノ・ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」もこの事件とブルジョアジーの没落を背景に、退廃の美を描いていたっけ。で、二つの劇を比べるなら、やはり「サド侯爵夫人」が圧倒的におもしろい。台詞、登場人物、展開、舞台設定いずれも見事だ。
いずれにしろ、「サド」も「ヒットラー」も逆転のドラマツルギーが極めて簡素な舞台装置で展開され、劇のインパクトをより強めている。さて、この二つの劇、いまならどんな配役がよいものか。