ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

UAの「cure jazz 」はいいぞ!

2006年08月04日 | 音楽
 あの声を聴いたとき、ジャズうたったらいいだろうなと思ったUA。やってくれましたUA×菊地成孔「cure jazz 」。これはいい。

1曲目の「ボーン・トゥー・ビー・ブルー」をはじめ、ジャズのスタンダードと菊地のオリジナルで構成されているが、ポップス歌手がジャズを歌ってみましたという最近流行のレベルではなくて、ジャズ・シンガーといってよいかどうか迷うが、新しいジャズの歌い手の誕生といえるコンテンポラリーなアルバムなのだ。日本のR&B系といわれる女性シンガーが、一生懸命声を張り上げビブラートきかせて黒人になろうとしていてもソウルが感じられないのに対し、UAはその声そのものがソウルフルでサウダーデな歌手だ。UAが歌をうたおうとすれば、それはソウルでヒップでジャズな歌謡になる。それが最初の一曲で見事に響いてくる。鳥肌が立ちます。

ブリジット・フォンテーヌとアート・アンサブル・オブ・シカゴの名盤「ラジオのように」を思い出させるコラボアルバムなのだった。
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めいどどーもすいません。

2006年08月04日 | アフター・アワーズ
 えーーっ、江戸っ子は不祝儀のなかでもお葬式のことを折れ口なんといったそうですが、葬式も神道になると様子が、だいぶ違ってまいりまして、神様になるんですから、これはもうおめでたい。田舎のほうだと「こんつわー、こたびはどーも、おめでとうござんすー」なんていうところもあるそうですな。こうなるてーと、祝儀なんだか不祝儀なんだかわかんなくなっちゃう。

神主が祝詞を上げ、玉串を奉てんして、二礼二拍手一礼とくる。何度も立ったり座ったりして、隣のじいさんなんか、こりゃきついなんて、こっちが坊さんにお世話になりそうだったりして。もちろんお線香の臭いなんザしませんから、どうも按配が違いますな。弔辞、弔電はなぜか弔いの字を使うのが不思議ですが、弔辞なんぞも、「深い悲しみ」とか「哀悼の意」なんて言葉は使わない。ちゃんと原稿をしたためてきた人はいいが、横着な人は、その場しのぎでいこうとするてーと、「えーー、あーー、心からあい、いーー、めいどのおーー、めいどどーもすいません」なんて始末。

仏様というか神様が90歳も超えた方ですから、これは仏様でも大往生でめでたしめでたしでいいかもしれませんが、若くして急に亡くなられた方なんかは、とくに信心がなければ無宗教の追悼式にするとか、悲しみの気持ちが表せるセレモニーがよいように思いますがいかがなもんでしょう。

 えーー、そんなわけで、ここんとこ折れ口やら還暦のお祝いやら、祝儀不祝儀が続いて、そのたびに祝い酒やらお清めらをいただいて、いい心持になっている按配。それにしても女性の喪服は和服、色白が似合いますな。今夜も蒸し暑そうだい。
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春樹じゃない「アフター・ダーク」に頭クラクラ

2006年08月04日 | 
 またまた、ジム・トンプスンしてしまった。
 「アフター・ダーク」(After Dark, My Sweet)。

 主人公の俺という一人称で語られるトンプスンの小説では、酒場で知り合った美貌の未亡人フェイも元刑事のアンクル・パドもゴールドマン医師もバーテンダーのバートも誘拐される子供のチャールズ・ヴァンダー・ヴェンダーⅢ世も(主人公以外の登場人物はほぼこの5人)、本当は何を考えているのか分からない。すべて主人公の元ボクサーで精神に障害を持つ、切れやすいコリーことビル・コリンズの視線と視界の中で主観的に語られるので、コリー以外の人物がどれほどの奴なのか、実際この誘拐事件を世間はどう見ているのかとかはよくわからない。これをミステリーと読めば、これほどいい加減なミステリーもあるまいが、一人称で語られるコリーに自分もなって読んでみると、まさにそこにはサスペンスが生まれてくる。

 アル中の未亡人フェイは何を考えているんだろう。ショートパンツと豊かな胸を意識させる薄いブラウスで俺に何をしようとしているのだろう。元刑事のアンクル・パドは俺を騙そうとしてるんじゃないか、金を独り占めするんじゃないか。そう、コリーと一体となって自分も、客観的に見ればどう考えてもうまくいきそうにない、この身代金誘拐計画に加担していくと、いつしか腋の下に汗をかいている自分に気がつくだろう。原題はAfter Dark, My Sweet。この意味は、実は小説のラストでコリーがいう台詞ではないかと思うが、さてどうなんでしょうか。

 トンプスンの作品の中ではいわゆる物語の破綻がない小説といわれているが、自分がコリーになってロールプレイングゲームのように物語を楽しんでいくときっとこっちの頭が破綻してしまうかもしれないのだった。
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