ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

そして、川は流れ、船は行く『長江哀歌』

2008年08月11日 | 映画
 WOWWOWで、ジャ・ジャンクー監督『長江哀歌』を見ることができた。

 顔を見れば、まるで漫才コンビ「次長課長」の河本に似たジャンクー監督の顔なのだが、だからというわけではあるまいが、実際、この映画のここかしこに絶妙な間でしかけが挿入されていて、ダム建設で水没する古都の市井の人々を描いた映画といったリリースのされ方とは異なった映画的魅力に溢れた作品なのだった。

 例えば、妻を探す男サンミンの宿にいきなりやってきて煙草をふかして退室する少年、あるいはこの少年が、どさ周りの芸人の子どものように歌謡曲を歌うショットで始まるシークエンス。サンミンが妻の兄の船を訪ねたとき、操舵室に順繰りにやってきてフレームに無理やり納まるようにして不自然な姿勢でそばを食べる船員たちの滑稽さ。チョウ・ユンファをまねて札の代わりに新聞のきれっぱしに火をつけてタバコを吸うマークと自称する男とサンミンの会話のシークエンス。解体されたビルの瓦礫をバイオテロの後始末をするように消毒して回る白装束の消毒服の男たち、あるいは、サンミンが働く歩きにくそうな瓦礫の工事現場に響く槌音のリズミカルな響き。宿屋の女将がサンミンに女を紹介するといって、壊れたビルの柱の陰から次々と現れポーズを取る主婦売春の女たちのあまりの普通さ。夫を探す女シェンホンが身を寄せる夫の友人の家の窓から見える景観を無視したモニュメントがいきなりロケットになって飛翔して消える荒唐無稽なショット。そして、ラストで山西省に帰るサンミンが足を止めて眺める先に見える、解体途中のビルとビルの間を綱渡りする男などなど、これらは、中国のアンゲロプロスとたとえられもする、映画の通奏低音のようなゆったりとした長回しのカメラの動き、主人公2人の歩行のリズムとは異なって、観るものの意表をついて画面に緊張と弛緩を生み出すのである。

 ジャンクー監督は、こうした意表をつく振る舞いで、世の中が若くして巨匠とさえ呼んでしまうことから自らを遠ざけようとしているのではないだろうか。だから、失われていく奉節の風景と人々への感傷などにひたっていない。サンミンとマークの会話の場面で、「この街に今は似合わない」と格好を付けて言うマークがコミュニケーションの手段にしているのは携帯電話であり、2人は着信音を披露しあうほど意気投合する。サンミンがヤオメイの住所を記しているのは、古い煙草のパッケージの裏で、表にはマンゴーの絵が書いてあるらしく(その意味は中国通でないとよく分からないのだが)、サンミンとマークがその絵をめぐって会話するこのシークエンスは、唯一この映画でサンミンが笑顔を見せる場面でもある。だが、やがてその着信音によってマークの死が分かるという残酷な場面もジャンクー監督は用意しているのだった。

 三峡ダムの建設によって次第に水没していく運命にある古都・奉節は、移住によって人々を故郷から追放する一方で、ダム建設や水没する街の解体作業のために多くの日雇い労働者を受け入れる街でもある。異常な経済発展に奔走する中国社会の縮図のようなこの街で、シェンホンは、この街に出稼ぎに来て、音信不通になっている夫を探す看護婦の妻、一方、炭鉱労働者サンミンは、帰郷したまま帰らない売買結婚で得た妻ヤオメイを探しにこの街に来た寡黙な夫。だが、すでに妻が住んでいた場所は水没しており、妻は出稼ぎのため街を出て行ってしまっている。長江が運ぶ人々の運命。シェンホンは、この街で社長と呼ばれ愛人のいる夫と別れ、新しい人生を踏み出す決意をして長江を下る。一方のサンミンは、日雇い労働者仲間と故郷の山西省にもどり再び炭鉱夫として働く決意をして埠頭へと街を下るところで映画は終わる。たびたび挿入される高い丘の上から長江とその渓谷を俯瞰するショットが美しい。

 烟、酒、茶、飴という名前のついた4つの章に分かれて物語は展開し、それぞれが、人と人をつなぐ媒介物の役目をもっている。烟、酒、茶、飴は、いずれも口唇によって機能をはたすことができるが、それらはまるでキスの代替物であるかのように愛情や友情の交換のための役割を果たすのである。シェンホンが夫の住んでいた部屋の棚から故郷山西省のお茶のパッケージを見つけるところから始まる「茶」の章、そこにシェンホンの揺れ動く心情が簡潔に描かれる。あるいは、のどの渇きというより、人生の渇きを潤すようにひたすらペットボトルの水を飲むシェンホンが、夫の友人の家で、ブラウスの襟もとを広げながら扇風機の風をからだに当てるショットには、シェンホンという女性の孤独感がみごとに表現されていた。

 『長江哀歌』では、何よりも、過剰にコントラストの強い画面が、登場人物たちの表情さえ黒く隠してしまうし、2人の主人公サンミンとシェンホンは常に無表情である。だが渓谷と長江の水をたたえた風景は、山水画のように主人公たちの背景にあって、常にエレジーを奏でているようでもあるのだった。


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