ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

漱石「門」が気に入りました。

2006年03月08日 | 
 えー、まったく忙しくてブログも更新できなかった。
 
 そんななかで、漱石「門」を読了、「彼岸過迄」を読み始めた。仕事のプレッシャーと格闘する日々だったので、「門」ののどかな日常描写と宗助が抱える不安にまったく共感してしまった。

「門」は実に何も事件らしい事件が起きない小説だ。というか事件後の夫婦が都市を隠れ家にして密やかに生活しているので、何かが起きては困るのである。毎日決まった時間に電車に乗って役所勤めに出かけ4時には帰る、そんな平凡な生活を繰り返す宗助は、新聞が伊藤博文の暗殺を伝えても騒がない、公務員の給与が5円もあがろうといってもことさら関心は示さない。弟の小六に学費継続問題の調整を依頼されても先延ばしにするばかりで積極的にことの解決にあたろうとしない。横丁のとっつきの崖下の家、しかも崖の斜面は殺風景でその上には家主が住んでいる。噂では大家は羽振りもよく毎日にぎやかな暮らしぶりらしく、まったく宗助の生活とは対照的だ。

 ずっと何かの不安が宗助のなかにしこりとなって消えていないのである。それは後半明らかになるが、生活費の足しに売り払った抱一の屏風が偶然家主の家に渡ったことを知り、よせばいいのにのこのこと見に出かけ、挙句にそれは自分が道具屋に売ったものだと告白までする始末。
 
 それがきっかけで、この大家の弟で満州馬賊みたいなのが帰ってきており、同じ仲間に安井という宗助がその名前を最も恐れている友人の存在が極めて間近になっていることを知るや、もはや不安は頂点に達し、いきおい禅寺に修行と称して逃げ込むのである。禅門をくぐれば不安から逃れられるくらいの気持ちだから修行に身が入るわけではない。不健康な容貌になったくらいで何も得られぬまま修行を終えて帰ると、安井は満州に帰ったと聞き、胸をなでおろす宗助、そしてふたたび退屈で波風を立てない生活が再開されるのだった。

 それにしても、なぜ、宗助は、一人で安井の存在が身近になったことの不安を抱えたままで、妻に告げて二人で共有したり、対策を立てたりしないのだろう。なぜ、漱石は宗助のような人間を描いたのだろうか。いろいろ不思議な小説ではある。「それから」でも「門」でも相手の女のほうがクールで割り切っているんだよね。主人公だけが偏執的に焦りまくっているところもおかしい。「門」は、漱石の小説には珍しく、主人公が役人でサラリーマンというのもおもしろかった。仕事の悩みなんてまったく描かれないのもおもしろい。
 
 漱石の小説は、出だしがどれもいいが、「門」の秋の縁側での日向ぼっこと夫婦の会話シーンもすばらしかった。

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