覗くという行為はどこか心を躍らせる。公園の出歯亀となれば立派な犯罪だが、お向かいの家の2階の部屋が窓越しに見えれば気になるし、ちょっと観察したくもなる。
ヒチコックの「裏窓」は、足を骨折したカメラマンが望遠レンズつきカメラでアパートの向かいの部屋を覗いているうち、殺人事件を目撃し、事件に巻き込まれてしまう。覗きの結果は事件が待ち受けているらしい。
辻原登の短編集『枯葉の中の青い炎』(新潮文庫)のなかの「ちょっと歪んだ私のブローチ」は、浮気した夫が、妻の承諾を得て、浮気相手の若い女の希望で結婚前1カ月だけ一緒に暮らすという話。それを許すほど鷹揚に見えた妻は、夫と女が暮らすマンションを突き止め、その真向かいの古いマンションの上階に部屋を借り、女の部屋と同じ色のカーテンをつけ、その隙間から毎日双眼鏡で女の部屋を覗き見る。さて、その結果は。幸せを運ぶといわれるパワーストーン、ラピスラズリが効果的に使われ、意外な結末を迎える。この短編集は傑作ぞろい。か細い縁で結ばれている2つの物語や出来事を、辻原マジックともいうべき大胆さで巧みに一つの物語にしてしまう。魔法の小瓶のような書物なのだ。
覗きといえば、久々に読んだE.T.A.ホフマンの「砂男」(池内紀訳・岩波文庫『ホフマン短編集』)もお向かいの美女に望遠鏡を通じて恋してしまう男の悲劇だ。夜更かしをする子供の目に砂をかけ、鳥のような嘴で目を突いて目玉をとりだしてしまうという砂男の悪夢に憑かれているナタナエル。怪しい化学実験の果てに父親を死に追いやったコッペリウスこそ砂男で、晴雨計売りのコッポラはその化身ではと疑っている。だが、コッポラから勧められて望遠鏡を覗くと向かいのスパランツァーニ教授宅に美しい娘の姿を認めた主人公ナタナエルは、すっかりその娘オリンピアの虜になってしまう。クララという婚約者がいるにもかかわらず、オリンピアの登場によって二人の愛は引き裂かれていく。だが、このオリンピアこそ教授が作った自動人形だった。壊れた自動人形の目玉が飛び出したのを見るや、砂男の悪夢がよみがえり、悲しい結末を迎える。
さてさて、ホフマンには「牝猫ムルの人生観」という作品があるが、これを漱石が「吾輩は猫である」の参考にしたとかいわれ、それについて言及した研究書もあるが、あったかもしれないがそんなことは漱石の「猫」にとってどうでもいいことで、むしろ、「三四郎」の中で漱石が三代目小さんを評価しているような落語への造詣とセンスこそ研究すべきで、東京人による文学としての「猫」の面白さをもっと追究すべきといっているのは小林信彦著『名人・志ん生、そして志ん朝』(文春文庫)である。この本では志ん朝の死を東京語の終焉ととらえており、志ん朝の死によって純粋な東京語による江戸落語を聞くことはもはやできなくなったと嘆く、追悼というより落胆の書なのだが、そんな文章を読むと、志ん朝さんを聴きたくなる。さっそくCD「落語名人会・古今亭志ん朝 崇徳院・御慶」などを買って、志ん朝さんの名人芸に酔いしれるのだった。ギョケーッ!
覗きにもどろう。
かくいう私も、中学時代、2階の自室から向かいの家の2階に間借りしているお姉さんを覗き見る楽しみをおぼえてしまった。仏具屋の看板が目隠しになって部屋全体は見えないが、我が家の方がやや高い位置にあるので、カーテンが空いていれば、窓側にあった僕の勉強机からは目を凝らすとお姉さんの日常はほぼ丸見えだった。同じ部屋にいた兄は反対側の壁に向いていたので、たぶんこの楽しみを知らなかったはずだ。
お姉さんは某宗教団体に入っているので、朝晩の読経はおつとめらしい。部屋の明かりを落としても街灯の明かりとか、他の家の照明の反射とかで、薄明かりのなかにお姉さんの白い姿をみとめることができる。もちろんクーラーなどない時代だ。向かいが中学生だと思えば油断していたのか、もちろんこっちも部屋の明かりは消しており、母からは部屋を明るくして勉強しないと目を悪くすると再三小言をいわれるのだが、「スタンドの明かりだけじゃないと気が散る」などと適当にやりすごしていた。だから、夏など開けっ放しの窓からお姉さんの着替える姿が見えてしまったのだった。
モニカ・ヴェルッチの「マレーナ」に出てくる少年状態だったわけだ。1年ほどでお姉さんは引越ししてしまい、ひと夏の経験で終わってしまったのだったが、延長されていたら、高校受験には失敗していたかも知れない。
ヒチコックの「裏窓」は、足を骨折したカメラマンが望遠レンズつきカメラでアパートの向かいの部屋を覗いているうち、殺人事件を目撃し、事件に巻き込まれてしまう。覗きの結果は事件が待ち受けているらしい。
辻原登の短編集『枯葉の中の青い炎』(新潮文庫)のなかの「ちょっと歪んだ私のブローチ」は、浮気した夫が、妻の承諾を得て、浮気相手の若い女の希望で結婚前1カ月だけ一緒に暮らすという話。それを許すほど鷹揚に見えた妻は、夫と女が暮らすマンションを突き止め、その真向かいの古いマンションの上階に部屋を借り、女の部屋と同じ色のカーテンをつけ、その隙間から毎日双眼鏡で女の部屋を覗き見る。さて、その結果は。幸せを運ぶといわれるパワーストーン、ラピスラズリが効果的に使われ、意外な結末を迎える。この短編集は傑作ぞろい。か細い縁で結ばれている2つの物語や出来事を、辻原マジックともいうべき大胆さで巧みに一つの物語にしてしまう。魔法の小瓶のような書物なのだ。
覗きといえば、久々に読んだE.T.A.ホフマンの「砂男」(池内紀訳・岩波文庫『ホフマン短編集』)もお向かいの美女に望遠鏡を通じて恋してしまう男の悲劇だ。夜更かしをする子供の目に砂をかけ、鳥のような嘴で目を突いて目玉をとりだしてしまうという砂男の悪夢に憑かれているナタナエル。怪しい化学実験の果てに父親を死に追いやったコッペリウスこそ砂男で、晴雨計売りのコッポラはその化身ではと疑っている。だが、コッポラから勧められて望遠鏡を覗くと向かいのスパランツァーニ教授宅に美しい娘の姿を認めた主人公ナタナエルは、すっかりその娘オリンピアの虜になってしまう。クララという婚約者がいるにもかかわらず、オリンピアの登場によって二人の愛は引き裂かれていく。だが、このオリンピアこそ教授が作った自動人形だった。壊れた自動人形の目玉が飛び出したのを見るや、砂男の悪夢がよみがえり、悲しい結末を迎える。
さてさて、ホフマンには「牝猫ムルの人生観」という作品があるが、これを漱石が「吾輩は猫である」の参考にしたとかいわれ、それについて言及した研究書もあるが、あったかもしれないがそんなことは漱石の「猫」にとってどうでもいいことで、むしろ、「三四郎」の中で漱石が三代目小さんを評価しているような落語への造詣とセンスこそ研究すべきで、東京人による文学としての「猫」の面白さをもっと追究すべきといっているのは小林信彦著『名人・志ん生、そして志ん朝』(文春文庫)である。この本では志ん朝の死を東京語の終焉ととらえており、志ん朝の死によって純粋な東京語による江戸落語を聞くことはもはやできなくなったと嘆く、追悼というより落胆の書なのだが、そんな文章を読むと、志ん朝さんを聴きたくなる。さっそくCD「落語名人会・古今亭志ん朝 崇徳院・御慶」などを買って、志ん朝さんの名人芸に酔いしれるのだった。ギョケーッ!
覗きにもどろう。
かくいう私も、中学時代、2階の自室から向かいの家の2階に間借りしているお姉さんを覗き見る楽しみをおぼえてしまった。仏具屋の看板が目隠しになって部屋全体は見えないが、我が家の方がやや高い位置にあるので、カーテンが空いていれば、窓側にあった僕の勉強机からは目を凝らすとお姉さんの日常はほぼ丸見えだった。同じ部屋にいた兄は反対側の壁に向いていたので、たぶんこの楽しみを知らなかったはずだ。
お姉さんは某宗教団体に入っているので、朝晩の読経はおつとめらしい。部屋の明かりを落としても街灯の明かりとか、他の家の照明の反射とかで、薄明かりのなかにお姉さんの白い姿をみとめることができる。もちろんクーラーなどない時代だ。向かいが中学生だと思えば油断していたのか、もちろんこっちも部屋の明かりは消しており、母からは部屋を明るくして勉強しないと目を悪くすると再三小言をいわれるのだが、「スタンドの明かりだけじゃないと気が散る」などと適当にやりすごしていた。だから、夏など開けっ放しの窓からお姉さんの着替える姿が見えてしまったのだった。
モニカ・ヴェルッチの「マレーナ」に出てくる少年状態だったわけだ。1年ほどでお姉さんは引越ししてしまい、ひと夏の経験で終わってしまったのだったが、延長されていたら、高校受験には失敗していたかも知れない。
カリガリ博士は3年くらい前に高い金額で買っちゃいましたよ。トホホ。
妖怪大戦争(ダイモンのやつね)は廉価版を買ったのでラッキーだったんですが。
メトロポリスは買いですよね。
ホフマンとメトロポリスね、買いに行けるかな?
イベントで名古屋に行ってました。
山本店総本家で味噌煮込みうどんを食って、
いい気分で新幹線にのったところで、
人身事故で新幹線がストップ。
豊橋でもう1泊ということになってしまいました。
さて、ホフマン短編集なんて出たんですね。
そして種村季弘訳ではないんですね。
早速買わなきゃ。
砂男も水木しげるは妖怪画にしてます。
妖怪大百科にある砂男は、
目がつぶれていて出っ歯のあんまさんのようで、
妖鬼化(むじゃら)の砂男は妖精のような格好で
帽子を被っていて、目がレコード盤のようです。
内田百の「贋作 吾輩は猫である」にも出てくる
「カリガリ博士」という映画を知っていますか。
モノクロの古い映画ですが、その中で眠り男というのも出てきます。やっぱりドイツの映画だったかな。