竹箒が路上の枯葉を掃くクローズアップのショットから始まり、やがてそれが何かを迎え入れるための城内へ続く道の清掃だったことがうかがえるロングショットに切り替わる。何かがやってくる気配に、城門の周辺ではしゃいでいた悪童たちが、道の向こうを見渡せる櫓へと走り出す。その先頭をリーダーと思しき男が、三層の櫓の階段を一気に駆け上がる。これをワンショットで捉えたカメラの動きに、何かが始まる期待感が高まる。城内に迎えたのは輿入れの帰蝶(濃姫)一行だが、ここから信長と帰蝶の初夜までのアクションは悪くない展開だ。とりわけカメラの芦澤明子のカメラワークはこの映画唯一の救いと言ってもいいだろう。このカメラあってこそ、綾瀬はるかの卓越したアクションも生かされていると言える。また、東映京都のセットづくりや美術はさすがだと思わされた。
だが、この映画の良いのはここまでで、この後本能寺の変まで続く、信長と帰蝶の30年のラブストーリーは、なぜこの二人が惹かれ合うのか明確な場面もない。足利将軍の案内役で京へ上った時、平民の格好で市中へ出かける二人が唯一夫婦らしい振る舞いで、この時信長が帰蝶に送った置き物がその後の二人を結び付けている証として示されるが、シンボルとしての求心力に欠ける。
摺の非人の少年を追いかけてその部落へ迷い込んだ末に、その老若男女を切りまくる二人とその後のまぐわいにどんな意味があったのか。信長を普通のヤンチャな男として描きたかったのだろう。聡明な帰蝶に対し、信長はただのうつけで、決断力もない暴君。それには木村拓哉の素がうってつけだったとしても、信長をそこまで引きづり下ろす意味が果たしてあったのだろうか。挙句にうつけが魔王へと変わり、その資格を失って光秀に討たれるという、よく分からぬ展開。
脚本は、大河ドラマ「どうする家康」と同じライターだが、歴史的に偉人と言われている人物を現代的な味付けでの悩める人として描き、それが聡明な女性の登場によって成長の階段を登っていくというのはどちらも同じだ。映画は帰蝶、大河はお市である。だが、どちらの作品もこの二人が一緒に登場することはない。この映画でもお市など全く存在しないかのように影も形もないのである。
もちろんフックションなのでどんなストーリーで描こうと勝手だが、一本の作品としての説得力は必要だろう。歴史の出来事をすっ飛ばしすぎたため、信長がなぜ魔王というまでになったのかわかるような場面がない。比叡山攻略の殺戮は結果であって、魔王が前提のふるまいだ。結局、信長と帰蝶のラブストーリーに絞ったため、だがその展開に極めて重要であろう歴史的出来事が端折られてしまった。だからなぜこの二人が惹かれ合うのかが一向に分からない。
そもそも東映は、何がしたかったのか。当代きってのスター二人の組み合わせならヒット間違いなしと踏んだのだろう。監督も脚本も旬の二人。だが、どう考えても映画ではないのだ。テレビの連続ドラマの作りなのだよ。それでもう少し作り込めばテレビとしては面白い作品になったかも知れぬ。
映画、せめて長くて2時間にでもまとめるつもりでスタートしていれば、こんな無様な作品にはならなかったのでは。さらに言えば、レジェンドというなら、時代劇に長けたあの中島貞夫監督がいるではないか。なぜ、このレジェンドに撮らせないのか。それこそ東映三角マークへの敬意というものだろう。
製作費20億と言うには、主役以外の配役はしょぼいし、戦国もので合戦シーンがないとは、一体どこに金を使ったのだろうと、突っ込みどころ満載の映画なのだった。それにしても木村拓哉は、撮影所育ちもしくは国際的に評価された監督の映画にメインで出ているのは「武士の一文」くらいしかない。そこがスターとは言え、この人に決定的に欠けている経験なのだ。まだまだ映画スターなどとは言えない存在なのだ。だからこそ中島貞夫監督に撮らせたかったのだが。
今年70歳になる身としては、東映映画とともに生きてきたと言ってもいいのだが、70年を祝う映画がこれでは、ちと寂しい。
こんなポチ袋がモギリのお姉さんから貰えた。
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