竹橋の国立近代美術館に「ゴーギャン展」を観にいった。平日なのでそう混んではいなかったが、大作「我々は何処から来たのか。我々は何者か。我々は何処へ行くのか」が初公開とはいえ、約50点の展示ではいささか寂しい。貧困と病気と失意のなかで死を意識しながら描いたというこの大作がメーンになっているせいか、ゴーギャンの暗い一面が表れた作品が多かった。タヒチ時代の作品も「タヒチの女」のような明るい野生の表現よりも、「かぐわしき大地」「何処へ行くの」「タヒチの田園」など、人間の原罪を問うような宗教色の濃い作品が選ばれていたのには何か意図があったのだろうか。母性を感じさせるタヒチの大らかさと鮮やかな色彩は影を潜め、とりわけ晩年の作品を特徴づけるのは赤の喪失であるように思われた。
会場を出たグッズコーナーには、タヒチ産の黒真珠やら琥珀の装飾品を売るコーナーがあった。見ていると、観光地の土産物屋のおばはんがするセールストークのような売込みをしながら店員の女性(おばはん)が近づいてきたので、「ここは何処?」「我々は何処にいるの?」と自問したくなってしまったのだった。
常設展示も見ることができる。常設展示の4階には皇居側に向かってガラスばりの休憩室がある。一休みしてボーッとしていると、皇居の石垣を這っている人影が見える。石垣の除草をしている職人さんらしいが、命綱もつけずスイスイと石垣を登り、草を抜き取っている。なるほど、すでに除草が済んだらしい左側の石垣はすっかりきれいになっていて、こんな仕事もあるのかと妙に感心したのだった。
さて、「我々は何処へ行くのか」、我々は、パレスビル地下のニュートーキョーで、生ビールとフィッシュ&チップスをつまんだのだった。
会場を出たグッズコーナーには、タヒチ産の黒真珠やら琥珀の装飾品を売るコーナーがあった。見ていると、観光地の土産物屋のおばはんがするセールストークのような売込みをしながら店員の女性(おばはん)が近づいてきたので、「ここは何処?」「我々は何処にいるの?」と自問したくなってしまったのだった。
常設展示も見ることができる。常設展示の4階には皇居側に向かってガラスばりの休憩室がある。一休みしてボーッとしていると、皇居の石垣を這っている人影が見える。石垣の除草をしている職人さんらしいが、命綱もつけずスイスイと石垣を登り、草を抜き取っている。なるほど、すでに除草が済んだらしい左側の石垣はすっかりきれいになっていて、こんな仕事もあるのかと妙に感心したのだった。
さて、「我々は何処へ行くのか」、我々は、パレスビル地下のニュートーキョーで、生ビールとフィッシュ&チップスをつまんだのだった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます