ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

ほんとに失われたものは何?「ロスト・イン・トランスレーション」

2006年05月02日 | 映画
 ロバート・レッドフォードが監督した「モンタナの風に吹かれて」という「シェーン」あたりが原型となるよくあるお話の映画にかわいい少女役で出ていたのがスカーレット・ヨハンソンだったというのは、かなりあとになって知ったのだが、「バーバー」で車が事故を起こすきっかけとなる床屋の股間に顔を埋める前の少女の表情や「真珠の耳飾りの少女」の美しさに比べると、最近録画で観た「ロスト・イン・トランスレーション」のスカーレット・ヨハンソンは、まあナチュラルな演技やメイクが求められていたせいもあるのか、とてもブスに撮られていた。

 これは、監督のソフィア・コッポラが悪い。「ゴッドファーザーPART3」でマイケルの娘役で出てきてしまったソフィアは、作られなくてもよかった「PART3」ということを差し引いたとしても、こんな重要な役で出てきてはいけない顔であり、その等身大で役を与えたのがこの映画だったので、スカーレット・ヨハンソンはソフィア並みの無残な姿でスクリーンに登場しなければならなかった。ヨハンソンをこんなにするなら、ソフィアが自分でやればよかったのだ。そうすればカメラマンの夫に放っておかれるという設定も納得される。

 異国にいる疎外感、孤独感から同国人が惹かれあうというのはよくある話だが、傍若無人な日本人、カラオケ、しゃぶしゃぶ、ホテトル(?)、わけの分からない国日本という虚構が前提としてなければ成立しない物語なので、いまさらこの程度の異文化認識で映画を撮ること自体どうかと思う。忙しいカメラマンの若い学生妻という役なのだが、それほど稼いでいるとも思えない夫が、ハリウッドスターが宿泊するホテル(センチュリーハイアット)に長期滞在できるのかとか、ヨハンソンが妻だったら、いくら忙しくてもずっと一緒にいたいだろうにとか、見終わった後だんだん不愉快になってくる映画なのだった。

 ぼくは、特別スカーレット・ヨハンソンが好きなわけではないけれど、たまたま観た映画になぜかよくこの人がでていて、フェルメールの「青いターバンの少女」をモデルにした「真珠の耳飾りの少女」では、あまりにもよく絵に似ていたので、それ以来フェルメールの少女がみんなヨハンソンに見えるくらいなのだった。
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サドとヒトラー、史上最強コンビか

2006年05月02日 | 
 三島由紀夫「サド侯爵夫人・わが友ヒットラー」を読む。それにしても、サドとヒットラーの組み合わせなんて、臆面もなくできるのは三島以外では考えられない。
 
 おそらく観る劇というより、言葉を聴く劇だろう。詩的にデコライズされた台詞を読む劇。とりわけ「サド侯爵夫人」では、台詞を通じて、時にはいかがわしく猥褻に悪徳の数々が語られ、貴族社会の女たちの権謀術数、心理合戦が繰り広げられる。作者自身が舞台で女優たちにその猥雑な言葉を語らせること、美貌や美徳の奥から悪徳が露出する様に快感を覚えているにちがいない。

 「サド侯爵夫人」は1789年のフランス革命をはさんだ1772年、1778年、1790年の18年間の物語を3幕構成で6人の女たちの会話によって描かれている。舞台は、サド侯爵夫人ルネの母モントルイユ夫人のパリの館。1幕目ではルネの妹アンヌの不貞が露呈し、2幕目ではルネの閨房での行状が暴かれ、3幕目ではイマジネーションによる現実の転倒が行われ、言葉の勝利が宣言されて幕を閉じる。落ちぶれてルネの元に帰ってきたアルフォンス・フランソワ・ド・サド侯爵を冷酷に「もう決しておめにかからない」と突き放すのは、サドが愛したのは現実のルネではなく後に「悪徳の栄え」として世に出ることになる小説の主人公、ルネをモデルとしたジュスティーヌであったこと、それはとりもなおさず言葉への敗北を認めたからだった。

 一方の「わが友ヒットラー」は1934年のレーム事件を扱った3日間の物語を3幕で構成、舞台はベルリンの首相官邸。登場人物はヒットラー、レーム、シュトラッサー、クルップの4人。「サド侯爵夫人」が女の物語なら、こちらは男だけの舞台。健気なまでにヒットラーの友情を信じながらヒットラーの謀略によって虐殺されるレーム、一夜にして極右のレームと極左のシュトラッサーという同志を切り捨て、政治の中道という現実に突き進んだヒットラーが権力の頂点へとのぼりつめた一夜を描く。

 3幕における資本家クルップとの立場の逆転を描いたくだりが見事だ。このレーム事件は、ヒットラーが限りなく男臭い義侠の集団突撃隊を切り捨て、国軍と手を握ることで権力を掌握する、ナチスのターニングポイントとなった事件だ。ルキノ・ヴィスコンティの「地獄に堕ちた勇者ども」もこの事件とブルジョアジーの没落を背景に、退廃の美を描いていたっけ。で、二つの劇を比べるなら、やはり「サド侯爵夫人」が圧倒的におもしろい。台詞、登場人物、展開、舞台設定いずれも見事だ。

 いずれにしろ、「サド」も「ヒットラー」も逆転のドラマツルギーが極めて簡素な舞台装置で展開され、劇のインパクトをより強めている。さて、この二つの劇、いまならどんな配役がよいものか。
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