自分が認識しているものが、確かにここに存在していて
自分が認識しているものこそが現実だ!
と、私たちは信じて疑わないのだけれども
実は、自分が何かを認識する以前に、その相当な前段階に、、
「私たちは何をどう見るか、何を見て、何を見ないか?」を、すでに決めている。
そういう錯覚、トリックが実際に起きている。
とこしえに、ここに広がっている神の王国ではない別の何か、、、、、!
についての可能性を激しく信じていて
それを見ることにしていて、好き好んで(もちろんその無意識には気がつかずに)それを見続けている。
何かを、何かとして物理的な事象として認識している時にはすでに
それ以前の段階に、なんらかの決断をしている。
そしてその決断の結果を認識している。
もしもその決断が、過去ではない真実をありのままに見る決断に切り替わったなら
今までと同じものを見ることは、もはや不可能となっていくんだろう。
そしてそれについて私たちは恐れていて、それについて抵抗しているわけで
その恐れと抵抗さえなければ、存在しないはずのものをまるで存在している物事としては認識できないだろう。
私は何も知らない、という決めつけなしのところからしか
あらゆるすべてに気がつくって難しいことなんだろう。
この動画は、そのほんのほんのヒントになるような動画だと思うんだけど
こんな風に自分が知っていると思っていること、見てやろうと思っていることを
毎秒毎秒投影の世界の上に見ていて「ほらやっぱり。そうだよそうだよ!」って考え(騙し)ながら
私たちは時間を費やしてきたことに気がつくかもしれない。
その「焦点」を、もっともっと、、自分の外側じゃなくて
心の奥の中心に向けていくことで
今まで見えもしなかった物事に気がつき、見えなかったものが見えるようになるんだと思う。
見えるし、聞こえるし、感じるし、知るんだろう。
私たちは、そのような未知に呼びかけられている。
スコトーマの真実
※もちろん私たちは肉体の眼球によって世界を眺めることができているわけじゃないけれども、
これは面白い実験として参考になると思いました。
夜眠っている時の夢を私たちは肉眼を使って見ていないものね。
私たちは自分の目的(優先させているもの)に見合ったものを外の世界に見てきた。
これからもそうなることだろう。
だから、目的を明確にすることは非常に重要なことだろう。