自分が本当に望んでいることについての行動や発言をストップさせようとするような声は
私たちの人生や日常に、これからも繰り返しやってくるかもしれない。
でも、それを構い続ける必要なんてないんだよ。
そうする理由は、どこにもない。
自分がそうし続けたいのでない限り、それをまたいで前進してしまっていい。
今日、ふと思い出したのだけど
私が14歳の頃、どういうわけかデザイナーになりたいと思っていて(あの頃バブルだったしね)
その夢について兄(遠い夜明けを観に連れて行ってくれた2番目の兄)に語ったとき
「そんな風に、自分がやりたいことをやって生きるなんてできやしないんだよ!」
と、彼は私の夢を「それは不可能だ、現実をみろ」と、断言していた。
彼は次男で、自力で大学を卒業して都内の外資系企業に勤めていた。
当時の彼はこの世界を生きる現実に直面していたのかもしれない。
「なんで中学生の私が将来について望みを持つこと自体を完全に否定するんだ、この人は。。」
と思って、悲しくて
兄の目の前で大粒の涙を流した。
彼は「僕らは自分の望みや夢ばかりに従って生きてゆけないんだよ」と
私に教えようとするつまらない大人に見えた。
(今思うと、すごく面白いんだけど、、そのときの兄は今のラファエルよりも若いじゃないか!)
でも、私は本当の意味ではその声を真に受けて信じることはできなかった。
私は小さい頃から「やりたいことのためなら、なんだってやりたい」って思うような大胆さがあったんじゃないかと思う。
兄はそのことについて危なっかしさを感じていたのかもしれない。
11歳上の兄は、子供の頃の私の言動をよく見ていて
「のり子は正義感が強くて一生懸命だね」と言っていたことも思い出した。
(小学生の私には彼がそう言っている理由を理解できなかったけど)
自分では「私は地味だ」と思っていたのだけども、、
きっとあの頃から何にでも一生懸命だったんじゃないかと思う。
そしてそのパワフルさは特に14歳くらいから増していったんじゃないかな
その理由は、父との難しい関係が引き金で
「大人しくてお利口さんな私」という仮面の下に隠され心の中に押し込まれていた
叫びや憎悪や怒りを、特に父に対して噴出させたし
これ以上ないほどの絶望や、挫折もした。
それで「どんなに足掻こうが、どんなに引きこもろうが、同じ人生なんだから
だったらやりたいだけやった方がいいじゃん、やらないで後悔するよりもやって後悔した方がマシだよ!」
って、誰に教わるでもなく、経験からそう思っていた。
そう思っていたなあ〜〜〜、、、
そして、今も相変わらずそう思っている。
なんだか、、あの "14歳のころの怖いもの知らずゆえの力強さ"みたいなものが今復活しつつある気がする。
「は?やりたいことはやるし、やりたくないことはやらないよ!誰にも遠慮しないよ」
っていう強さ、、
私のやりたいことは、神の子全体の目覚めとそのために使っていただくことで
それを邪魔する何かなんて
もうどこにも存在していないとわかっている。
邪魔することができるとしたら
それは「私」以外にいない。
そしてほんとは、
その「私」にすら神の子全体の目覚めを邪魔することは不可能だ。
なぜならそれはすでに起きていることだから。
時間の中に閉じこもり、閉じ込められ続ける決断をやめるだけなんだ
ほんとーに、それだけなんだよ。